鳴りっぱなしの電話を取らない広報 朝日新聞 大虚報の“ツケ”(上)

さらけ出した社と新聞の劣化

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朝日新聞社が限定したメディアだけに案内した9月11日の「お知らせ」ファクス

 「〇〇さんでしたね。あなたの所属は?」

 「電話交換課です」

 「それは総務局か部の中にあるのですか」

 「それはちょっと……………」

 「あなたはそんなことも分からないで電話受けをしているのですか?」

 「ちょっとお待ちください…………」(上司に聞きに行ったようで電話待ちメロディーに変わる)

 ……………「お待たせしました。庶務サポート部です」

 朝日新聞本社受付との、こんなやりとりを最後に小紙社会部デスクは1時間近くにわたった電話を切った。9月11日午後7時に1,2分前だった。

 電話は、記者会見への参加を求めて広報部への取り次ぎを求めたのだが、〇〇さんは「広報部の電話が塞(ふさ)がっているから、かけ直してほしい」の一点張り。「いや、このまま待ちます」と答えると電話待ちメロディーに切り替わる。その繰り返しが延々と続いた。

 この日夕方、東京・築地の朝日新聞本社で木村伊量(ただかず)社長が記者会見し、辞任するかもしれないという情報が入り、記者2人が飛び出して行った。地下鉄日比谷線・東銀座駅で降りた2人は、午後6時すぎに本社に到着した。すでに30人ほどの記者やカメラマンが本社入り口前の歩道に並んでいた。その列の最後尾につく。

 朝日新聞社の腕章を着けた10人ほどの一群がその場を仕切り、会見は午後7時半からと“お触れ”を出す。そのうち会見の入場社はファクスで案内した約40社に制限という話が耳に入ってきた。係員に「世界日報は」と問うと、名簿リストをなぞって「入ってません」。入場基準は何かと迫ると「会場が狭い」などと言い、抗議すると、あとは「広報に聞いてくれ」の一点張り。

 やりとりを見ていた朝日のライバル社記者が「自由な取材活動ができないのはおかしい」と加勢してくれ、その場にちょっとした混乱の渦が起きた。だが小紙の締め出しは変わらない。

 冒頭のやりとりは、デスクが朝日本社広報に取り次ぎを求めたものだが、広報部の電話は全て塞がっていて繋(つな)がらないと言う。だが、現場の記者が広報部直通番号の方に何回も電話を入れたが、電話が鳴りっぱなし。塞がってなどおらず、誰も受話器を取らなかったと証言する。

 「広報に聞いて」という広報部には誰も配置していなかったのか、いても鳴るにまかせて誰も電話を取らなかったのか。少なくとも、不祥事を起こした新聞社の誠実な対応の欠片(かけら)すら見えなかったのである。

 1989年、朝日新聞は自作自演の「サンゴ礁損傷事件」を起こしたときは、広報担当が会見し、当時の一柳東一郎社長が辞任した。2005年の「NHK番組改変報道」では、秋山耿太郎社長が会見し「取材が不十分であった」ことを認めた。これらの記者会見の取材はオープンに開かれていた上に、今回のように質問時間を制限するような姑息(こそく)な姿勢もなかったことを思い出す。このときも不祥事については大変な批判にさらされたが、そのメリハリの利いた応対、応答ぶりは“さすがは朝日”と思わせるものがあった。

 朝日はいま一連の不祥事続きの中で、最大の課題である慰安婦虚報の検証(8月5、6日)の甘さが指摘されることで自浄能力に疑問符が付いた。再度の検証が第三者機関丸投げに追い込まれたのは、幹部や人材がダメになったのか、組織に問題があるのか。新聞の劣化を無残にさらけ出した。

(編集委員・堀本和博、片上晴彦)