普遍的テーマ得た朝ドラ「カーネーション」をアエラで評した岡室氏

◆「ドラマの力を問う」

 「あまちゃん」や「半沢直樹」などテレビの人気ドラマが続いたのを受け、アエラ(10月14日号)は「ドラマが面白い」と題して特集。何人かの識者が「ドラマの力を問う」として分析しているが、そのうち早大演劇博物館館長の岡室美奈子さんは「現実の社会を映してドラマが変わった」ことを挙げ、その嚆矢が2011年度下半期の、朝の連続テレビ小説「カーネーション」だとしている。

 「カーネーション」は渡辺あや脚本で、大阪・岸和田を舞台に、デザイナー小原糸子の生涯を描いて大ヒットした。国際的に活躍するデザイナー、コシノ3姉妹の母、故・小篠綾子さんがモデルだった。家族愛や戦時中のリアルな描写に、専門家の間からも高く評価する声が上がった。

 岡室さんは記事の中で「震災で多くの方が亡くなったことで、死を生との連続でとらえ、いかに死者を身近に感じて生きていくかが切実な問題になりました。死者とどう向き合うかが、ドラマの重要なテーマになってきたのです」「(カーネーションは)その象徴的な作品」と位置付けた。

 その最終回は、「おはようございます。死にました」というヒロイン糸子のナレーションから始まる。糸子の死から5年後、彼女を思い出して涙ぐむ3人の娘たちに向かって、糸子は「うちはおる。あんたらのそば」と語る。「晩年の糸子は亡くなった家族の遺影に見守られて仕事をしています。だんじりをひきたかった女の子がそれがかなわず、だんじりをひくかわりにミシンを踏む。最後には糸子自身がだんじりとなり、周りの人たちが懸命にひいている。そのなかには死者もいるように思えました」と岡室さんは解説している。

◆「死は終わりでない」

 「人はみんな死ぬ、しかし死は終わりではない」というテーマは、その後の映画やテレビドラマに引き継がれる。宮藤官九郎脚本の「11人もいる!」(11年)は、「幽霊も含めて家族11人。これも死者が身近にいることを描いた作品」。同じく坂本裕二の「それでも、生きてゆく」(11年)は「加害者と被害者の家族がどう犠牲者の死に向き合っていくかが、真摯に描かれています」。「ゴーイングマイホーム」(12年)、「泣くな、はらちゃん」(13年)など、「このようにドラマでは、フィクションならではの方法によって震災の乗り越え方が模索され始めた」と。被災地が舞台となった「あまちゃん」については、災厄を超えて「いかに“普通”を取り戻していくか」という宮藤官九郎のテーマが貫かれていると指摘している。

 岡室さんの的確なドラマ分析というべきだ。

 例えば米国では、映画、テレビドラマでベトナム戦争からイラク戦争まで、その時々の時事問題を入れ、国内だけでなく世界へメッセージを発している。韓国もしばしば南北の分断というテーマを浮かび上がらせ、作品のグレードを高めようとしている。作品の良しあしはおくとして、普遍的なテーマを扱うことで映画やテレビドラマの命脈を保ち、国民的娯楽、芸術となってきたことは疑いえない。

 逆に、日本の映画やドラマが単調になり視聴者離れを起こした理由の一つは、長く普遍的なテーマを見つけることができなかったせいではないだろうか。それが東日本大震災で変わった。日本は自然災害にしばしば見舞われ、そのたびに克服してきた経験を持つ。「人類と自然災害」「生と死」という地球的問題で回答を出す立場に余儀なく置かれている。その自覚がドラマの内容に反映している。

◆日本人はドラマ好き

 数年前まではむしろ大人が見るドラマは少なく、ドラマの退潮期と言われた。しかし生来、日本人はドラマ好きで、新聞小説の吉川英治「宮本武蔵」や獅子文六「てんやわんや」、司馬遼太郎「竜馬がゆく」など、その時代、時代に国民が熱中する作品が世に出た。

 それがどうだろう、この四半世紀はバブル崩壊やリーマン・ショックなど、異常な経済現象に国民が翻弄されてきた。普遍的なテーマを得た今日のドラマ盛況は、必然的だったのである。

 国民の一体化を図るためにも、良い現象だと思う。この機運で一気に東京五輪までいきたいものだ。

(片上晴彦)