対米戦「国力に差」、開戦前にハワイ訪問で知見


「武蔵」3代目艦長、開戦80年を前に遺族にインタビュー

対米戦「国力に差」、開戦前にハワイ訪問で知見

旧日本海軍の朝倉豊次さん(右)と戦艦「武蔵」艦長時代の名刺(遺族提供)

対米戦「国力に差」、開戦前にハワイ訪問で知見

米軍機の猛攻にさらされる旧日本海軍の戦艦「武蔵」(手前)=1944年10月24日、フィリピン・シブヤン海(米海軍歴史・遺産コマンド、米国立公文書館提供)

対米戦「国力に差」、開戦前にハワイ訪問で知見

戦艦「武蔵」の3代目艦長だった父親、朝倉豊次さんの思い出を語る娘の荻原道さん=10月17日、京都府宇治市

 太平洋戦争中、戦艦「大和」と並び世界最強の不沈艦と呼ばれながら米軍に撃沈された旧日本海軍の戦艦「武蔵」。3代目武蔵艦長の朝倉豊次さん(1894~1966年)の遺族が、日米開戦から12月8日で80年になるのを前に取材に応じた。娘の荻原道さん(85)=京都府宇治市=によると、朝倉さんは戦時中、対米戦について「国力に差がある」と、懸念をにじませたことがあった。

 朝倉さんは富山県黒部市出身で海軍大学校卒業後、海軍省などを経て43年12月から44年8月まで武蔵の3代目艦長を務めた。4代目艦長と交代した2カ月後、武蔵はフィリピン・シブヤン海で米軍機の攻撃を受け沈没した。

 荻原さんは3歳から5歳まで広島県・江田島で、疎開する小学2年までは東京都で暮らした。父の朝倉さんは家では仕事の話をすることはめったになかったが、日本軍が守勢に回り戦局に暗雲が漂い始めた42年から43年春ごろ、対米戦の無謀さを母との会話の中でふと漏らしたことがあった。

 「あまり長引いたら(戦況は)難しい」「力の差を分かっているのだろうか」。夜中に帰った父が、情勢を案ずる母に発した言葉だった。帰宅に目を覚ました荻原さんは父の膝に乗り、うれしいばかりだったが、「力の差」という言葉は末っ子で負けず嫌いだった荻原さんの記憶に残った。終戦直後に母の話で、父が「米との国力の差」を懸念していたことを知った。

 荻原さんは「ハワイへ行って、いろいろ見てきたからこそ、出た言葉だと思う」とも話す。朝倉さんは太平洋戦争の戦端を開いた日本軍によるハワイ真珠湾攻撃の約2年8カ月前の39年4月、特務艦「石廊」の艦長を務めハワイ・ホノルルに寄港、視察するなど米の知見があった。

 当時ホノルルには、米国で亡くなった斎藤博・元駐米大使の遺骨を日本に届ける途中の米巡洋艦「アストリア号」も入港。外務省の電報などによると、悪化する日米関係の改善に尽くしながら病に倒れた斎藤氏へのフランクリン・ルーズベルト米大統領の異例の配慮によるものだった。朝倉さんは外交官とともにアストリア号を訪れ、謝意を表していた。

 荻原さんは「言いたいことが言える時代じゃなかった。みんなブレーキを踏んでしまったのだろう」と語る。朝倉さんはシンガポールで終戦を迎え、抑留生活を経て帰国。帰国後は「次世代を担う子どもの教育がしっかりできない国は滅びる」が口ぐせだったといい、戦後は郷里の黒部市の教育長も務めた。荻原さんも現役の保育園長だ。

 一方、朝倉豊次さんの孫で、日本国土開発社長の朝倉健夫さん(67)の手元には、特務艦「石廊」のハワイ寄港時の写真帳などが残されている。豊次さんは亡くなる直前まで、戦中や敗戦時の回顧録をつづっていたという。健夫さんは「国が負けたことの責任と、二度と戦争を起こしてはならないという思いが最後まであったのではないか」と話した。