性転換「夫」の嫡出推定に不合理、最高裁の“家族破壊判決”

近代主義で「法の賢慮」欠く

 最高裁判所は昨年後半、日本人の家族観、政府の家族政策に大きな影響を与えると思われる、二つの判断を相次いで示した。一つは、男女の間に生まれた子(婚外子)の遺産相続分を法律上の夫婦の子(嫡出子)の半分とした民法の規定を違憲とした判断。もう一つは、第三者の精子を使って妻が人工授精し出産した子供について、性同一性障害のため女性から「男性」に性別変更した夫が自分の子供と認めるよう求めた裁判で、この夫を「実父」とすることを認めた判断だ。

 前者については、最高裁の判断にそった内容の改正民法が成立するとともに、日本産科婦人科学会はこれまで夫婦に限定してきた体外受精の対象を、婚姻届を出していない、いわゆる「事実婚」のカップルにまで拡大する方針を固めるなど、影響が拡大している。婚外子が法的な不利益は被らなくなったからというのがその理由だ。一方、後者は、生殖能力がなくとも「実子」が持てることになり、「同性婚」を認めることに道を開いたことになった、との指摘もあり、波紋を広げている。

 保守系の月刊誌「正論」3月号は、「蠢動する家族破壊主義者たち」の特集を組み、「白のものを黒というが如き」最高裁判断の影響や、その判断を導いた「家族の多様化」説の欺瞞性を明らかにすることを試みている。大新聞のほとんどが二つの最高裁判断を支持する中でのこうした特集は、論壇にまだ良識が残っていることを示すものとして評価したい。

 特集の一つ、評論家の西部邁と高崎経済大学教授の八木秀次の対談「何サマや最高裁! 婚外子・性転換『父』子裁判の浅慮と傲慢を糺す」では、戦後に進んだ近代主義の中で、歴史的に構築されてきた日本人の「常識」が崩壊した結果、社会の「最後の砦」である最高裁で「法の賢慮」が働かなくなった構図が浮き彫りとなっている。

 対談の中で、八木はまず、性転換した男性を「実父」とすることを認めた最高裁判断は「中学生でも立てられる」論理構成で、そこからは「法の賢慮」が失われている、と疑問を呈している。

 心と体の性別が一致しない性同一性障害者は現在、特例法によって性別適合手術を受けるなど一定の条件を満たせば、戸籍上の性別を変えることができ、結婚も可能になっている。今回の最高裁判断の根拠となったのは「妻が婚姻中に妊娠した子は夫の子と推定する」とした民法の嫡出推定規定だ。つまり、法的に認められた夫婦である以上、生殖能力のない「夫」であっても民法規定の適用を認めるべきだ、としたのだ。

 これに対する八木の批判は「杓子定規に法律の条文を持ってきて、それに当てはめるのは誰にでも出来ます。そうではなく、そこに賢慮を働かせてきたのがこれまでの最高裁なのに、そういうものがまったく窺えない」というものだ。

 賢慮が働かずに論理構成が単純化する傾向は、嫡出子と婚外子との資産相続格差を違憲とした判断でも見られる。憲法は「基本的人権」「個人の尊重」を謳(うた)っているのだから、遺産相続は嫡出子も婚外子も平等でなければならないという、単純な論理である。ここにおいては法律婚の尊重、あるいは遺産相続分を同じにすることによる結婚制度への影響といった、杓子定規には行えない判断が軽視されている。また、こうした総合的あるいは社会的な判断については、国家や社会に対する強い責任意識や深い洞察力が伴うことが不可欠であるが、それを放棄したような判断が続いているのだから、そこには最高裁判事の質の低下という深刻な問題も垣間見える。

 一方、八木の主張に同感する西部は、日本人の「常識」が戦後に曖昧となってしまったことが最高裁による「杓子定規の解釈」をもたらしたと分析する。常識は歴史的に形成されるものである。しかし、戦後の日本社会にあっては不幸ながら「常識というものがどんどん薄らいでいる」のであって、この常識の希薄化に重なるように、法の賢慮も働かなくなっているのだ。この常識の希薄化には、敗戦による歴史と伝統の分断が深く関わっているのだろう。

 また、常識は社会の共通基盤となるものだが、その常識が崩壊するとなると、社会の全体像が構築されにくくなる。したがって、「全体像が何事か分からなければ、家庭問題、性同一性障害問題だって論じられないはずなのです。その全体像をどこから借りてくるかというと、実は流行の世論から借りてくるわけです」と西部。また、八木も「歴史に密着した常識ではなく、世の中の表層的なところばかり追いかけている」として、最高裁判事でさえも大衆迎合に陥る危険がある、と危惧するのである。大衆あるいは世論と言っても、実際は大新聞の論調ということになるのだが…。

 結局、現在の大新聞は個人主義礼賛であるから、最高裁の判断は今後ますます「伝統的な家族」を否定する方向に進むだろう。さらに、西部は最高裁判断に「人間性礼賛のヒューマニズム」、あるいは「極めてステレオタイプな紋切り方の人権論、選択論、自由論」があると分析するが、これは同性愛者同士の結婚、つまり「同性婚」でもいいという論理につながる。今回の最高裁判断によって煽(あお)られる“家族破壊”を押しとどめるのは容易ではない。

 編集委員 森田 清策