音楽であれ美術であれ、芸術作品には贋作問題…
音楽であれ美術であれ、芸術作品には贋作問題がつきまとう。先ごろ別人による代作問題が発覚した佐村河内守氏の作品もその一例だ。「著名な作曲家として社会に迎えられたい」という願望を人が抱くことはある。
普通はその方向に向かって努力するものだが、それを放棄し、他人に曲を作らせて自分の名で発表した、というのが今回の騒動だ。
さらに被爆2世で「耳が全く聞こえない中で作曲したベートーベンのような人物」というエピソードが付加価値として流通する。メディアが飛びつきたくなる要素がたっぷりだ。
松本清張は『渡された場面』(1976年)で小説、『天才画の女』(79年)では絵画の贋作者を登場させた。『砂の器』(61年)では、才能は本物だったが、経歴を詐称する作曲家を描いた。
が、近代以前には、作者という観念は大きな意味を持たなかった。国宝の茶碗「曜変天目」(静嘉堂文庫所蔵)も、12~13世紀、中国で制作されたことしか分かっていない。無名の個人か集団が作ったのだろう。どんな経緯で日本に伝来したのかも不明だ。
近代以降著作権が明確になった時代にあっては「たとえ他人が作ったものでも、自分が作者として認められたい」という願望を持つ人間もいるかもしれない。しかし、「天才とは努力し得る才だ(努力を苦痛と思わず平気でできるのが天才だ)」というゲーテの言葉が不滅の真理であることに変わりはない。