米国のロボットブームの「影」も追求すべきだったアエラの特集
◆回診の時間省くロボ
アエラ2月3日号の特集記事「ロボット起業/米で大ブーム」は、米国でロボットが注目され、すでに機械産業の一分野としての地位を占め始めている様子を綴っている。SF映画「スターウォーズ」シリーズが、当の米国で大人気だったのを見ても分かるように、米国民は新奇な技術や未来製品に対する関心度が高い。
記事では医療現場でのロボットの活躍を例に取る。「テレプレゼンス(遠隔存在感)・ロボット」と呼ばれる新しいロボットの一種「RP―VITA」は医師の「分身」。医師が自宅のコンピューターを立ち上げ、入力し病室へ分身を向かわせる。「高さ152センチで、上部には大きめのタブレット大のスクリーンが付いている」「医師の顔が映し出され、患者は本人がそこにいるように感じることができる」。つまり実際に医師が立ち会っているのと同じような機能を果たすので、医師が回診に足を運ぶ時間を省くことができるというのだ。
一事が万事、手術ロボットの「ダヴィンチ」や、放射線を腫瘍に照射する「サイバーナイフ」などの医療用ロボットの利用も進んでいるという。「サービス用ロボットでは(中略)農場などで鉢植えを一列に並べるロボット、太陽の動きに合わせてソーラーパネルの方向を変えるロボットなど、さまざまな業界でロボットが活躍中だ」と続く。
◆産学協同が流行演出
このようなロボット隆盛の理由について「コンピューター、センサー、ビジョンシステムなど」ロボットの要素部品が格安で手に入るようになったこと。「日本で開発されてきた2本脚で人間のような身体や顔を持つロボットとはほど遠い。/しかしヒューマノイドにこだわらなかったからこそ、ロボット開発が花開いた」の2点を挙げている。
それに加えて、技術開発で産学協同がうまくいっていること、起業家をめぐる資金提供の問題などが今のところスムーズに行われていることなど。要所を突いた分析と言える。
ただし記事は、米国のロボット産業に終始しているのが、やはり物足りない。米国のロボットブームは決して意外の感を与えるものではないが、ロボットと言えば、かつて日本のおはこだった。それだけに日本のロボット産業との対比に言及がないのは、なんだか気をもませるし、欠落の感もある。
例えば日本でも今、医療分野でiPadなどのモバイル端末を医療現場で活用しようとする動きがある。叶(かな)えば医療技術や知識などをリアルタイムで医師間共有となり即、医師自らの治療行為に利用することができる。ところが、これは患者だけでなく医師の多くに拒否感がある。
医療と言えば、患者と向き合ってこそ良い治療ができるし、今後の医療方針を立てることもできると信じる日本の医師は少なくないのだ。このIT技術一つとってもなかなか受け入れ難いのだから、ロボットを「分身」に使うには、心理的に抵抗感があるというのが実情だ。
一方、わが国は産業用ロボット技術で世界のトップリーダーとして先行。工場のオートメーション化にはそれなりに貢献し、1989年に当時の通産省の大型プロジェクト「極限作業ロボット」で最終段階を迎えた。それまでの産業用ロボット開発の技術の到達点は見え、開発に技術者たちの心をそそることはなくなってしまった。その後、わが国でロボット製造のコンセプトとなったのが、地域社会や家庭にサービスを提供するロボットだった。
◆日本との比較も必要
この製造がなかなか難しく、最もネックとなったのが「安全性」の問題。家庭内で使われ、人間と共存するロボットとなれば、ちょっとした事故でも許されない世論がある。米国の技術的追い上げを座視し、ロボット技術の改良に手を拱(こまね)いていたわけではない。わが国では、完璧なロボット作りというシバリが、その後のロボット作りに影響を与えてきた。
アエラの記事内容は、いわば米国のロボットブームの“光”の部分。ロボットの安全性の追求がどこまで行われているのか、普及も流行的な一過性のものがかなりあるのではないか、起業の危うさがつきまとうのではないかなど、その“影”の部分についての追求がない。大いに気になるところだ。
(片上晴彦)