坂本竜馬と安重根、明治維新と韓末を比較

江戸時代と李朝には遡らず

 8月15日が近付いてくると韓国では「植民地支配」と「光復」が繰り返し語られる。「どうして植民地にされたのか」「誰がどのように誤って併合に至ったのか」という悔悟だ。

 「月刊中央」(7月号)に劉敏鎬(ユミノ)同誌客員記者による「安重根(アンジュングン)と坂本竜馬」の記事が載せられた。劉氏は韓国の延世大を卒業した後、松下政経塾(15期)で学んだ知日派を代表する論客である。劉氏は、この2人の行跡から浮かび上がる韓末と明治維新を前後する時代に、その答えを探そうとする。

 「韓国・日本近代史を研究する人で明治維新に注目しなかった人はいないだろう。なぜか。日本は独自的、主体的に近代化に成功できたのに、なぜ韓国は自力でなく植民地体制で20世紀を迎えねばならなかったのか。明治維新はこうした質問に対する究極的な答えの一つだ」

 確かにそうだろうが、明治維新だけに注目していては答えは出ない。より根本的には、なぜ維新が可能だったかを理解するために、その時までに蓄積が可能だった江戸時代を知らなければ、李朝との差を理解できないのだ。

 つまり、江戸時代というまれに見る長期間戦争のない平和で安定した時代に、町民文化が花開き、経済が発展し、幕藩体制下で各地に名産・名物が開発され、近代国家の下地ができていた日本と、中央集権体制と官僚主義で地方地域づくりが見捨てられ、厳しい身分制度で人材発掘・登用が難しく、農業、産業の発展がほとんどなかった朝鮮との差が、まさしく維新を可能にしたか、亡国に遭ったかの差となったのである。

 劉氏が坂本竜馬と安重根を比較することで、読者がその時代の差を感じ、差が生じた原因にまで思考が遡(さかのぼ)れば、原稿の狙いは達成されたことになるが、読んでみる限り、それは簡単ではなさそうに見えるのが残念だ。

 坂本竜馬という人物は李朝では絶対に生じ得なかった人物である。いや土佐藩でさえ、幕末という時代にならなければ、竜馬のような人材を世に出すことはできなかった。藩の枠を超えて、海軍や商社の活動を通じ、時代の流れを読み、大胆に行動できたからこそ、明治維新を可能にした薩長同盟を成立させる立役者となり得たのだ。

 その坂本竜馬を生み出せた時代と環境に対して、劉氏の原稿は十分ではないものの、それを安重根と比較しつつ紹介することで、韓国読者はある程度のイメージは膨らませることができそうだ。

 安重根は初代韓国統監・伊藤博文を1909年10月、ハルビン駅で射殺した暗殺犯であるが、単に抗日ゲリラではなく、私財をはたいて二つの学校(三興学校、敦義学校)を建て、石炭事業にも手を広げていた事業家の側面も持っていた点は、「竜馬の行跡とあまりにも似ている」と劉氏はいう。

 さらに、「日本を敵視するのではなく、共に共存共栄する対象として受け入れる東洋平和論を作り出した」点は「世界史的次元で韓国の変化を模索した時代の先覚者にも通じる」としている。

 返す返すも残念なのは、韓国側で安の思想を評価する体制がなかったことだ。旅順監獄に収監された安の価値を認識したのは、むしろ獄吏や裁判に関わった司法関係者ら日本人だったというのは歴史の皮肉である。

 安重根が「従来の韓国的世界観とは違う角度で近代化実践に邁進(まいしん)した事実」は韓国ではまだよく知られていない。劉氏も、「安重根に関する多様な角度の再発見と再発掘が今後も続くことを期待する」と書いている。

 司馬遼太郎が坂本竜馬を再照明して生き生きと描いたように、韓国でも安重根を伊藤暗殺の「義士」とだけ見ずに、東洋平和を実践しようとした「孤独な知識人」として描き直す必要があるのだろう。

 編集委員 岩崎 哲