光復70年に葛藤残す韓国 単独建国反対の金九を記念
光当たらぬ李承晩初代大統領
韓国は今年「光復70周年」を迎え、それを記念して切手が発行された。図柄は独立運動家の金九(キムグ)が描かれている。金九は「1940年から47年まで大韓民国臨時政府の主席」だった人物だが、これに対して「光復70年に相応しいのか」という疑問が提起された。月刊朝鮮(8月号)に同誌の裴振栄(ペジンヨン)記者が、「朝鮮と大韓民国の精神分裂的自己否定」の記事を書いて、金九の図柄に異議を唱えているのだ。
裴記者はまず「光復」の意味を問う。「光が復する」すなわち「主権を取り戻すこと」と定義した。決して「解放」を意味するものではない。韓国は1945年8月15日、日本の敗戦によって「解放」されはしたが、「主権が回復された」わけではなかった。南側は米軍に、北側はソ連軍によって統治されたからだ。
その3年後、1948年に南側単独で総選挙を行って8月15日に大韓民国を「建国」している。厳密にはこの日に「主権を取り戻した」ことになるわけで、これを成し遂げたのは李承晩(イスンマン)初代大統領らである。
裴記者は、だから切手には「李承晩大統領と建国に参加した『建国の父ら』を登場させること」が相応しいと主張する一方で、金九については、「一生をかけた抗日独立闘争を通して見せた高潔な精神」を評価するのは当然としても、「最後の瞬間に、大韓民国の建国に反対して、ソ連と金日成(キムイルソン)の対南工作に利用された瑕疵(かし)がある」と手厳しい評価を下している。
「瑕疵」とは何のことか。金九は南側単独の総選挙に反対し、あくまでも南北統一を推進するために南北総選挙を主張したのだが、それは結局、「赤化統一」の野心を隠して南北総選挙を主張していた北朝鮮を利することになった、と見られたことを指している。
当時の状況は、韓国の「単独政府樹立に反対することは、すなわち大韓民国建国に反対することであり、統一祖国建設とはすなわち共産党との連立政府樹立と共産化を意味していた」のだ。
金九は李承晩との路線闘争に敗れ、49年6月26日、ソウル郊外の自宅で暗殺される。米国は「臨時政府」を認めなかったから、金九は「主席」ではあったものの、独立運動を率いていながら、最後まで「大統領」にはなれなかった。
韓国はそうした「大韓民国の出自」について、いまだに悩んでいる。建国の経緯を見て大韓民国に「正統性」があるのだろうかという疑問だ。加えて、北朝鮮がことあるごとに韓国政府の「正統性」を否定し、内心の動揺を突くものだから、南側にはある種のコンプレックスが深く根を下ろすことになった。
それが韓国人をして、李承晩よりも金九を評価し尊敬させる心理工作として、いまも効力を発揮しているともいえる。
裴記者は金九と李承晩の扱い方にそれが表れているとして、一例を挙げた。金九の銅像は観光地としても知られるソウル中央の南山に立っているのに対して、李承晩は将忠洞自由総連盟入口と梨花荘(自宅)に立っているだけだ。
政治でも同じ傾向を示している。与野党を問わず、金九を讃える者の方が多い。これに対しても裴記者は、「大韓民国を建国した李承晩大統領を無視蔑視しながら、大韓民国建国にどうしても反対した金九先生だけを讃えるのは重症精神分裂というほかない」と厳しく批判する。
金九には上海臨時政府を率いたという犯しがたい「神話」がある。たとえ、それを当時世界誰ひとり認めなかったにしても、臨時政府は日本との「交戦国」であるという根拠になる。金九に対する評価はそうした韓国人の儚(はかな)い夢が重ねられているのだ。
毎年、光復節を迎えながら、「独立」か「建国」かで議論が起る根底には、未だに解決されない韓国の歴史問題が横たわっている。
編集委員 岩崎 哲