上方落語界の「巨星」桂米朝さん死去


学者肌で“噺の復活”に尽力、古典から「オリジナル」まで

上方落語界の「巨星」桂米朝さん死去

「米朝小米朝親子会」での桂米朝さん=2004年5月、京都府立文化芸術会館

 上方落語界の「巨星」が落ちた。漫才や喜劇の人気に押され、風前のともしびだった戦後の上方落語を復興させたのが、後年「四天王」と呼ばれた故笑福亭松鶴(六代目)、桂春団治、故桂文枝(五代目)と桂米朝さんだった。中でも、学生時代に落語の研究家を志したという米朝さんは「知性派」「学者肌」と評された。

 旧満州(中国東北部)で生まれ、姫路市で育った。演芸場に通う父親の影響で子供の頃から落語に興味を持ち、大東文化学院(現大東文化大)進学後、寄席研究家の正岡容(いるる)さんに師事。故郷で終戦を迎え、1947年に四代目米團治に入門し、三代目米朝を名乗った。上方落語界は当時、後継者が10人余りまで減って惨たんたる状況だった。

 入門後は多くの師匠の下に通って、古典を覚え、文章に書き留めた。そこから時代背景や登場人物の性格などを徹底分析、現代に合わない部分はそぎ落とし、今風のくすぐりを加えて演じて見せた。復活した話は「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」など20以上。見事に米朝オリジナルと言ってもいいネタとなった。

 大阪では演芸場は漫才や喜劇が中心。そこでホールでの落語会に活路を見いだしたのも米朝さんだった。正統派の柔らかな語り口としっかりした話の構成で、東京など各地の落語会でも多くのファンが聞き入った。米朝一門は孫弟子まで含めると60人を数え、上方落語界の一大勢力になった。ホールでの一門会は人気で若手を鍛える場にもなった。

 落語研究家の一面も持ち「米朝落語全集」「上方落語ノート」「落語と私」など、数多くの著書を残した。映画やテレビドラマへの出演、司会やディスクジョッキーなど、本業以外の分野でも活躍した。

 落語家として初めて2009年に文化勲章受章。脳梗塞で入院した後だったが、同年11月の親授式に出席し、「芸能界始まって以来の珍事かもしれません」と元気に語っていた。