元韓国サッカー代表・柳想鉄氏の死を悼む
《 記 者 の 視 点 》
左目の失明隠し日韓で活躍
サッカーJリーグの横浜F・マリノスと柏レイソルで活躍した柳想鉄(ユサンチョル)氏が、すい臓がんで死去。6月7日、その一報が流れた時、思わず言葉を失った。享年49歳。日本と韓国のサッカー史を彩ったスター選手の早過ぎる訃報に言葉が出なかった。
Jリーグが1991年に設立され、93年にリーグが開幕すると、ジーコ氏をはじめとした世界のそうそうたるプレーヤーたちが日本で活躍した。2000年前後には、韓国の選手たちが続々と海を渡って来た。その一人に柳氏がいた。1999年に横浜に入団。2001年に柏レイソルの洪明甫(ホミョンボ)氏(1999年入団)と西野朗監督に請われて入団した。当時の柏には洪氏のほか黄善洪(ファンソンホン)氏(2000年入団)もいた。柳氏は、柏で02年の途中までプレーし、一度韓国のプロチームに移籍。
03年に再び横浜に移籍。この移籍は、岡田武史監督に誘われてのものだったが、実は入団予定だった選手がチーム合流を前に契約を解除してしまうという事態が起きていた。チームがその選手のために用意していた右サイドバックというポジションに柳氏を抜擢。ゴールキーパー以外何でもこなせる才能が発揮され、03年のリーグ優勝に貢献し、04年末まで在籍。柏時代も含め通算113試合44得点を挙げ、惜しまれながら帰国。06年に現役を引退。クラブチームなどの監督を務めていた。
サッカーに限らず日本と韓国のライバル関係は、複雑なものがあるが、それでも互いに認め合い選手同士やファンとの交流は今も続いている。
サッカーの日本代表と韓国代表の21年6月までの通算成績は、日本サッカー協会の発表によれば77試合で14勝23分40敗(PK戦は公式では引き分け扱い)で韓国が圧倒的だ。
柳氏がいた時の韓国代表の攻守の強さは、悔しさとともに称賛を送ることもあった。
フィジカル面や精神面の強さ、1対1の強さは脅威だった。その強さで韓国代表は、02年の日韓W杯で大活躍した。
柳氏の体について当時、横浜のチームのマッサージ担当者が、「筋肉の作りがアジアでは見たことがない」と声を上げるほどだったという。そんな柳氏のプレーに引かれたファンも多かった。一方で、高校時代に相手のシュートが左目に当たり失明状態だったことは引退まで知られていなかった。
視力検査では右目で視力表を覚え、左目の検査の時に答えていた。スポーツ選手として不利な状況でも、それを隠し失明を感じさせずに代表やクラブチームの試合に出場し、チームを鼓舞する姿は、今にして思えばその静かな情熱は、驚くべきものだ。
病気が公表され、闘病が伝えられると横浜のサポーターが韓国語で励ましのメッセージを送り、力づけた。柳氏は、応援のお礼にと昨年2月に病身を押して日産スタジアムに足を運び、再び戻ることを誓っていた。日韓のサッカー界に多くの功績を残し、「アニキ」として慕われ愛された故人の冥福を祈りたい。
サンデー編集長 佐野 富成