人間の霊性を無視して尊厳性を失う

社会科学と故郷喪失

 社会科学は本当に人を幸福にするのか。戦争、飢餓、貧困、自然災害は克服されておらず、グローバル資本主義は現代文明の脆弱(ぜいじゃく)さをあらわにしている。

 経済学者も本質的欠陥に気付き、佐伯啓思は『近代の虚妄』(東洋経済新報社)を著し、中山智香子は『経済学の堕落を撃つ』(講談社)を書いて経済学を批判した。

 社会科学が生まれたのは西欧に近代世界が登場した時代で、学術用語も社会制度も他の文明圏に転用されていった。世界の西洋化はなぜ起こり得たのか。

 歴史学者オットー・ブルンナーは、母体の西欧中世世界を取り上げ、『中世ヨーロッパ社会の内部構造』(知泉書館)の中で、「第一級の社会的事実」として教会と世俗の二元性を挙げる。聖と俗の二つの世界は緊密に結び付いていて、中世中期の闘争の後、完全な姿を現した。

 ブルンナーはまた、農民、市民、身分制議会、主権を例に挙げて、「中世」から「近代」への変貌を描いていく。宗教改革の後、統一的教会組織はなくなったが、キリスト教的国際法共同体の精神的遺産を海外に運んだという。

 教会と世俗は対立し、キリスト教は責任を果たせないまますさまじい宗教戦争に突入。その後に来たのが近代だ。身分制社会は解体され、階級社会が登場した。その混迷の中で人々は教会的道徳や価値判断から離反する。

 神学者エルンスト・トレルチはこう描写する。「18世紀というものが意味するものは超自然主義への反抗であり、またこれまで絶対的に神的であり超人間的であったところのもろもろの真理や基準の人間化であるとともに、また従来神的な権威に拘束されていた個人の解放なのである」(『ルネサンスと宗教改革』岩波文庫)

 聖書は聖典の位置から引きずり降ろされ、事実と照合しないと批判されて、単なる歴史文献に身を落とす。ダーウィンも、ニーチェも、マックス・ウェーバーもそこから登場する。

 ウェーバーは『古代ユダヤ教』で、国家形成以前のユダヤ史は無視し、神学的な部分は削除して、預言者と祭司の対立など、階級対立の出来事として、旧約聖書の世界を描いた。

 近代は、国家とは切り離された経済的に規定される「社会」が登場した時代。個人の位置が伝統によってではなく、経済的地位によって規定される世界。そのとき彼は故郷喪失に陥り、自分の位置の正しさと意味への問いが生じてくる。

 政治哲学者ハンナ・アーレントはウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を、故郷喪失者の物語として読もうとする(「哲学と社会学」『アーレント政治思想集成1』(みすず書房)。社会学は、故郷喪失者がそれを覚醒させられた時代に生み出した産物で、一定の限界内部でしか機能しないという。

 近代の延長である現代世界も、トレルチのいう「預言者的・キリスト教的世界」の否定に成り立ってきた。社会科学は人間の霊性を無視し、知的成果に満足しているうちに物質中心主義に陥り、人間の尊厳性までも喪失してしまったのである。(敬称略)

 客員論説員 増子 耕一