「性の多様性」の暴走 「命」への感性麻痺させる

《 記 者 の 視 点 》

 「GOLDFINGER’99」として郷ひろみさんがカバーしたことで知られる「リヴィン・ラ・ヴィダ・ロカ」を世界各国でヒットさせたリッキー・マーティンさんが10月末、第4子が出産したと、インスタグラムに投稿した。通常ならおめでたい話だが、彼はゲイ(男性同性愛者)である。

 なのに、どうして子供が誕生するのかと言えば、これまでの3人も今度生まれた4人目もすべて「代理母」による出産だ。日本産婦人科学会の倫理規定によって原則禁止となっている日本と違い、米国では精子・卵子提供だけでなく代理出産も含め、生殖補助医療にほとんど規制がないから可能なのだが、そこで浮上するのが生命倫理の問題である。

 マーティンさんは、いわゆる「LGBT」(性的少数者)の支援活動に取り組んでいる。日本の多くのメディアや言論人も彼ら彼女らの人権擁護に積極的だが、人権の大切さを訴える側の人間が代理母を使って子供を「つくる」ことについては多くを語らない。

 今年春には、60歳を過ぎた米国人女性が同性婚をした息子のために、代理母となり「孫」を出産したというニュースが流れた。日本国内では不可能なので、米国で子供を生んでもらったゲイの日本人もいる。米国で代理出産を依頼する場合、費用が「1000万円必要」とも言われるように、多額の金銭授受が発生するケースも出てくる。

 日本でブームになっているLGBT運動を支えているのは「性の多様性」という考え方だが、それは必然的に「結婚の平等」「子供を持つ権利」へとつながっていく。しかし、そこで生じる「生命の尊厳」の侵害という、極めて深刻な事態がすでに起きているのに、メディアがそれを見て見ぬふりするのは、自ら煽(あお)ってきたブームに水を差すことになるからではないのか。そうでなければ代理出産の容認も支援の一つということか。

 何かにつけ「多様性」がもてはやされる昨今だが、この言葉を耳にすると、私は今年7月に亡くなった勝田吉太郎さんの言葉を思い出す。「評論家たちが当然のことのように、あるいは良いことのように語る『価値観の多様性』とは、価値観の混迷ないし価値観の無政府状態を意味しているようである。言い換えるなら、価値や意味というものの重みが失われた時代、“道理への感覚”がどこか麻痺(まひ)した時代と言ってよい」(『思想の旅路』)と述べ、「『価値観の多様性』とは要するに、『精神の雑多性』の別名」と断じたのだ。勝田さんはロシア政治思想史やアナーキズムの研究者だった。

 LGBTとは、性のありようであるが、その行動は価値観に左右される。たとえ恋愛感情や性欲が同性に向かっても、自身の倫理観から同性愛行為を行わない人もいよう。それは、異性愛者であっても、修道士のように禁欲的な人生を送る人が存在するのと同じである。

 とは言っても、ゲイであれば、同性とカップルになる人が多くなる。しかし、そこを超え、代理母によって子供をつくるのは“暴走”であって、そんな「生命の無政府状態」を容認することも含め「道理への感覚がどこか麻痺した時代」の典型なのだろう。

 社会部長 森田 清策