大和王権(大和朝廷)は三輪山が苦手だった…


 大和王権(大和朝廷)は三輪山が苦手だったと梅原猛(本年没)が語っている(『対話 日本の原像』中公文庫/1989年)。三輪山は奈良県桜井市にある467㍍の山。山そのものが大神(おおみわ)神社の神体で、祭神は大物主神。

 10代崇神天皇の時代、疫病の流行で多数の死者が出た。どうやら、三輪山の神が祟(たた)っている。そこで、大物主神の子孫であるオオタタネコを見つけ出して三輪山を祀(まつ)らせると疫病が収まった、というのが『古事記』(712年成立)の記述だ。

 疫病が流行することはあっただろうが、むしろそこには、三輪山を信仰する先住民と後から大和へやって来た大和王権との宗教的・政治的対立があったというのが梅原説だ。

 先住民とは出雲勢力で、大和王権以前に奈良盆地へやって来て三輪山を信仰していた。そこへ後から「神武勢力」とも言うべき集団がやって来て、両者の間に対立が生まれた。

 最終的には、出雲勢力を圧倒して大和王権が成立した。『古事記』は大和王権による歴史記述だ。「疫病」は両勢力の対立の物語的表現だったと梅原は指摘する。

 大和王権が先住の出雲勢力を圧倒したことは表立って記述しにくいから、『古事記』では疫病という比喩を使ったのだろう。王権が三輪山を苦手とした事情も了解できる。無論、こんなストーリーには証拠があるわけもなく、梅原説は永遠に仮説に留(とど)まるしかないのだが、それにしても興味深い仮説には違いない。