「阿部昭は忘れられていなかった!?」と思った…
「阿部昭は忘れられていなかった!?」と思ったのは、30年前に亡くなったこの短編小説の名手を思い出すことが時々あったからだ。
先月末、平成時代の最末期に阿部著『天使が見たもの』(中公文庫)が刊行された。幾つかの短編が収録されたこの文庫の表題作「天使が見たもの」(1976年)は、当時文芸時評で高い評価を得た。
40年以上も前の作品なのに全く古びていないこの短編は、母子家庭の崩壊がテーマだ。少年が自宅アパートに帰ると、母親が死んでいる。どうやら病死のようだった。少年は近くのビルの屋上から飛び降り自殺をする。
当時、実際に起こった事件をモデルとした短編だが、現実を超えて見事な作品となっている。遺書となった少年のメモには、家では母親が死んでいるから、自分の遺体を自宅アパートに運んで下さいとあった。
メモには、アパートまで「やく二百五十メートル」ともあった。「約」ではなく「やく」が10歳の幼い少年をよく物語る。あっさりと、1組の母子家庭が消滅することの厳しさと哀切が読む者の心を打つ。悲惨な話ではあるが、小説という形で表現するのは、並の力量では不可能だ。
この作品は今でも鮮明に印象に残っているが、21世紀の今、こうした短編が発表される機会はめったにない。昨今の小説家は、流行作家であっても、死んだ途端に忘れられる。文学作品の置かれる環境が、ここ40年ぐらいの間に激変したようだ。