「大空にのび傾ける冬木かな」(高浜虚子)…
「大空にのび傾ける冬木かな」(高浜虚子)。朝目覚めると、寒さで布団からはみ出ていた肩が冷え切っていた。それでも、日中は暖かな日差しがあるので体調管理が難しい。外に出ると、紅葉した木々は目に鮮やかだが、落ち葉も多い。
枯れ葉を踏んで歩いていると、水気が無くなっているのでカサコソと音を立てる。どこか田舎の道のような気配がして悪くない。ところが、落ち葉が重なり過ぎて歩きにくくなってしまう場所もある。
かつて、この落ち葉をテーマにした絵本の『葉っぱのフレディ』が話題になった。大きな木の葉っぱのフレディが、やがて秋になって紅葉し、そして枯れ葉となって落ちていく。死というものを考えさせる絵本として注目された。
絵本は葉っぱに託して春から秋までの期間を人間の一生に例えたものだが、このように充実して生きるということはなかなか難しい。
明治の文豪というと夏目漱石や森鴎外らを思い出すが、文豪という言葉のせいか、かなり高齢まで生きた印象がある。しかし漱石の場合、1916年のきょう、49歳で亡くなっている。現在では、49歳というと壮年のイメージで老境ではないのだが、漱石の場合は若死にという感じもあまりしない。
日本文学を代表する作品を世に送り出しているからだろう。十分に文学者として成熟していたと言える。葉っぱのフレディではないが、その生涯の終わりを十分に輝かせ大地へ帰っていったのである。