人間生きていれば、問答をしないわけには…


 人間生きていれば、問答をしないわけにはいかない。安政5(1858)年、問い質(ただ)したいことがあって、一橋慶喜が大老井伊直弼を江戸城に訪ねた。2人は初対面だ。慶喜は21歳、大老は43歳。

 大仏次郎著『天皇の世紀』(文春文庫)によれば、「今回の条約(日米修好通商条約)調印の件を知っていたか?」と慶喜が問う。が、回答は「恐れ入り奉り候」だった。「はいかいいえか」を聞いているのに、大老は「恐縮」と答える。「将軍(13代家定)の考えはどうだったのか?」と問うても回答は同じ。

 「調印は将軍が決めたのか、大老が決めたのか」と質問を変えても「恐れ入る」と言うだけ。事実上回答がないまま、調印の事実だけが残る。

 慶喜もそれ以上の追及は断念した。井伊の態度は神妙だが、「回答しない」との意志は強固だ。年齢差が大きいからか、英明と言われた慶喜も軽くあしらわれた格好だ。持っている情報の差も大きかったはず。

 その後慶喜は、不時登城(無断登城)をとがめられ、以後登城禁止。この問答の翌日、息子と同様不時登城した実父水戸斉昭(なりあき)らは、慶喜より重い謹慎が命じられた。一橋派の全面敗北だ。

 学生が質問して教員が答えるように単純な問答であればいいが、慶喜も井伊も、互いに政敵であることを重々認識し合った者同士だ。そんな中での問答ともなれば、それ自体が政治的意味を帯びてしまうのは避け難い。それは、160年前も今も変わらない。