「論語」をこのところ読んできて、昔といっても…


 「論語」をこのところ読んできて、昔といってもついこの間まで、日本の政治家の基本的な教養に論語があったということを再認識させられた。

 かつて鈴木善幸首相が、所信表明か何かで「寡(すく)なきを患(うれ)えずして均(ひと)しからざるを患(うれ)う」と述べた。社会党から自民党に移った異色の経歴の首相らしいとも言えるが、出典は論語「季子第十六」である。

 数年前には安倍晋三首相が「信なくば立たず」と語ったが、これも論語「顔淵第十二」にある言葉だ。その国民の信を問う投票があす行われる。

 選挙期間中ということもあるのだろうか、孔子が言葉巧みな人を基本的に信用していないこともよく分かった。「巧言令色、鮮(すくな)し仁」(学而第一)、「巧言は徳を乱(みだ)る」(衛霊公第十五)など。その反対が「剛毅朴訥、仁に近し」(子路第十三)。

 理想の政治を説き追求した孔子の言葉が、最近の政治家からあまり聞かれなくなった。その一方、いかにも今風で大衆受けしそうな「巧言」が飛び交う。何よりも演説のうまさや弁舌の巧みさが求められる米国流の政治スタイルの影響があるのだろう。世論とマスメディアをより意識するようになったことも、そんな傾向の背景にあるようだ。

 「国難突破」(安倍首相)、「リセット」(小池百合子希望の党代表)、「まっとうな政治」(枝野幸男立憲民主党代表)。これらが単なる「巧言」なのか、実のあるものなのか、その判断はわれわれ有権者に委ねられている。