『木佐木日記』(中央公論新社・上下巻)は…


 『木佐木日記』(中央公論新社・上下巻)は、大正時代の「中央公論」編集者木佐木勝の業務日記だ。ジャーナリズム史を語るに必須の文献と言われる。

 名編集者との評価が高い滝田樗陰(ちょいん)の思い出、有島武郎心中事件、関東大震災など、中身は豊富だが、中でも印象に残るのは、遅筆の作家から原稿を貰(もら)う苦労話だ。

 久保田万太郎、葛西善蔵といった遅筆で有名な作家との応対は並大抵のものではなかったようだ。が、「遅筆」という日本語も今はあまり見られなくなった。遅筆自体が少なくなったのか、そうした情報が伝わってこなくなったのかは不明だが、作品は予定通り発表されるのが普通だ。

 遅筆という語は「作家本位」の時代の産物なのだろう。読者も編集者も関係なく、「書きたいものを書く」という伝統が、明治20年代からの近代文学の歴史と共にあって、そうした風潮はつい30~40年前まで続いた。

 木佐木が編集者だった大正後期は「作家本位」全盛の時代でもあった。小説を書くよりも酒を飲むことが第一、と考えていた葛西のケースは極端としても、それがさほど特別でもなかった文壇の空気はあった。

 当代の村上春樹氏と葛西を比較してみると、変化ははっきりしている。村上氏も人間だから、好不調の波はあるだろうが、機械のように長編小説を量産し続けている。文学作品をめぐる書き手の環境が一変したことは間違いなさそうだ。