「子供のウソ」には独特のものがある。柳田国男…


 「子供のウソ」には独特のものがある。柳田国男は数え9歳時のウソで大変な思いをしたと告白している。「ウソと子供」(『柳田國男文芸論集』講談社文芸文庫収録)という54歳時の講演でのことだ。

 舞台は兵庫県。近所の豊かな子供の家には、土産を持った訪問客がよく訪ねてくる。貧しかった柳田の家には、人はほとんど来ない。肩身が狭いと思ったのか、ウソ話をでっち上げた。

 子供相手のウソだったのに、聞き手側の追及は意外に厳しい。柳田少年は、訪問者の細部についてまで語らなければならなくなった。客は城下の育ちのいい者で、きょうはこんな風に遊んだと具体的に説明した。

 全くのウソなのだから、追及をかわすためには、次々とウソを言い続けるしかない。とうとう、友人が柳田家を検分に来た。万事休した柳田少年は、ふすまの奥には隠し部屋があって、客人はそこにいると答える他なかった。

 家の裏へ回って確かめた友人は、隠し部屋なぞ存在せず、話全体がウソだったことに気付いたようだった。利口な柳田少年も、相手が自分のウソを見破ったことは自(おの)ずと理解した。

 小さなウソからはじまった柳田少年の罪悪感は、翌年の引っ越しの時まで続いた。「あれはウソだった」と告白する機会を失ったまま、この出来事は忘れられた。子供に限らない。本当のことを言わないまま時が経(た)ったという話は、世の大人たちにも案外多いに違いない。