『森鴎外の「智恵袋」』(講談社学術文庫)…


 『森鴎外の「智恵袋」』(講談社学術文庫)という本がある。明治30年代前半、鴎外30歳代後半の時期に新聞各紙に連載したものをまとめ、ドイツ文学者小堀桂一郎氏の訳をつけて昭和55年に刊行された。鴎外は当時、低迷期にあった。

 訳と原文500㌻に及ぶ本の中で「人の行為をただ行為それ自体としてのみ見ること(略)。行為の動機や由来を穿鑿しないこと」(小堀訳)という言葉が印象に残る。

 何か好ましくないことが起こった場合、「あの男(女)はどういう意図で自分に対してこうした行動をとったのか?」と考えても、なかなか分からない。

 分かりもしないことについてあれこれ詮索するのは、時間と労力のムダであるだけでなく、事態を悪化させることにもなる。だからここは、そうした行為が行われた、という客観的な事実のみを受け止めるべき、というのが鴎外の考えだ。

 わが身の言動とも照らし合わせて「なるほど」と納得する。同時に、鴎外でさえも、他人の自分に対する行為の動機について、あれこれ考えたことは何度もあっただろう、とも想像される。

 30代後半の鴎外は、陸軍軍医としていわゆる「小倉左遷」に遭遇するなど、不如意な時期でもあった。「行為だけに注目すべきで、背景について考えるな」とは、偉大な鴎外の言葉というよりも、自身の過去の言動を振り返り反省したところから生まれたもの、と理解すべきなのだろう。