「ペリー艦隊の江戸湾進入にはじまり、…
「ペリー艦隊の江戸湾進入にはじまり、それからほぼ一世紀後の日米戦争への突入、そして降伏、敗戦と引きつづいた両国関係は、離れて眺めわたせば、何者かの手によって仕組まれた壮大なドラマにも似ている」。
先日亡くなった米文学者で文芸評論家の佐伯彰一さんが『日米関係のなかの文学』(文藝春秋)で書いている。佐伯さんにとって日米関係は、生まれた時からの「避けがたい運命にも似ていた」。
誕生の前年、1921年にワシントン軍縮会議が行われ、日英同盟が切り離された。日本は「自主外交」へ突っ走る一方、米国のジャーナリズムは日本攻撃を始め、相互に敵対感情が強まっていく。
佐伯さんが東京帝大英文科に進もうと決めた41年の暮れ、日米戦争が勃発。研究対象は“敵国”の文学になってしまった。だが言論統制はまだゆるやかで初志貫徹、メルヴィルをテーマに卒業論文を仕上げた。
だが、それも45年4月、大空襲で灰燼に帰す。戦後はリエゾン・オフィサーとして通訳業を依頼され、九州各地で米軍との交渉の場に立ち会ったが、米兵を通して米文学とのつながりも復活する。
そして50年夏、米国の大学に留学。関心の中心には、日本人にとっての米国のイメージと、米国人にとっての日本のイメージがあり、相互のイメージを追いつつ、両国の関係にどう影響を与えたかを探究し続けた。佐伯さんが亡くなっても、日米関係の重要性は変わらない。