「工場のいつもこの音秋の雨」(中村汀女)…
「工場のいつもこの音秋の雨」(中村汀女)。東京でもこのところ秋雨が降った。日本人は秋雨にどこか寂(さび)しさを感じ、「秋雨(あきさめ)は蕭条(しょうじょう)と降る」(稲畑汀子編『ホトトギス新歳時記』)などと形容してきた。
確かに、秋雨の冷たさや背景の木々の紅葉などを考えると、そう言いたくなるのも分からないわけではない。紅葉とはすなわち葉が枯れ果てて落下する前の状態であり、人生の「老年」に当たるからである。
寂しく感じないといえば嘘(うそ)になるだろう。ただ、そうした中にも自然の営みの美しさを発見し、それを観賞する心を大切にしたのは日本人の伝統的な文化である。西洋の合理的思考で、枯れ葉になる前の物理的な現象といえばそれまでだが、それでは虚しい思いにとらわれてしまう。
その現象を美の対象とすることによって、華やかな秋の饗宴(きょうえん)として捉えられるようになった。秋が春と競い合う美しい季節となったのである。
しかも紅葉にしても、カエデのようにきれいに赤く染まるものばかりではなく、歳時記にある「桜紅葉(さくらもみじ)」のように、全体が赤く統一されることもなく、黄色が混じったり、虫食いの跡があったりする桜の紅葉も観賞してきた。
それぞれの個性を認め、その独自性をそのまま美の対象とする。それは日本が伝統的に多様な宗教や文化、そして渡来した人々を受け入れ、独自の文化を形成してきたことにも通じる。まさしく秋は物を思う季節である。