8月6日は広島、続いて9日は長崎に原爆が…


 8月6日は広島、続いて9日は長崎に原爆が投下され、今年で70年。長崎医科大(現長崎大医学部)の放射線専門の医師だった永井隆は、長崎の爆心地から700㍍の距離にある同大診療室で被爆した。

 重傷を負いながらも、自ら被災者の救護活動に奔走。白血病で倒れ、この世を去るまでの6年間、その後長く読まれた随筆『長崎の鐘』などの書を著した。享年43歳。

 この間、永井は「原爆は決して許せない。このエネルギーを平和のために使わなければならない」と、愛と平和、命の尊厳を訴え続けた。世界で唯一の被爆国・日本が戦後、なぜ原子力を選択したかを問う時、永井のこの“宣言”が国民に与えた影響の大きさが分かる。

 また、永井は「第2次大戦の愚を繰り返してはいけない。今後、科学技術によって自分たちで資源を得るんだ」とも語っている。少量のウランから大量のエネルギーが出る原子力を利用することで、それを成し遂げようということだった。

 昭和30年には永井の訴えを入れた原子力基本法が制定され、その後の原子力の開発現場に引き継がれた。このことは、原爆の悲劇の中から立ち上がった日本人の力強さをよく物語っている。

 日本は天然資源に乏しい国であり、科学技術先進国として生きざるを得ないという事実は今も同じだ。戦後、ずっと原子力の平和利用を進めていることに対する矜持(きょうじ)を失ってはならない。