神奈川沖の米艦上で、幕府目付岩瀬忠震らが…
神奈川沖の米艦上で、幕府目付岩瀬忠震(ただなり)らが、日米修好通商条約に調印したのは、157年前の安政5(1858)年のきょう。岩瀬らは役人だから、上司の許可がなければ調印できない。「臨機に対応すべし」との許可を与えたのは、2カ月前に大老に就任したばかりの井伊直弼だ。
この調印がその後大問題となって、幕末維新史の前半を彩ることになる。「修好」はともかく、「通商」は経済的関係を結ぶことだから、開国そのものを意味する。朝廷の意向を無視して幕府が勝手に条約を結ぶのはおかしい、との議論が噴出、「反幕府」の世論が形成された。
外交と内政が絡み合って妙な方向へと動き出すのは、今も昔も変わらない。直弼主導の安政の大獄(安政5~6年)という大騒動となった。
大獄への猛反発が、安政7年の桜田門外での直弼暗殺事件につながり、反幕攘夷派の力がにわかに強まる、という風に歴史は転がった。
が、不思議なことに、直弼暗殺の7年後の慶応3(1867)年、王政復古のクーデターによって政権を奪った薩長勢力は、かつての攘夷思想はかなぐり捨てて、「開国は自明のこと」とばかりに欧米化を推進してはばからなかった。
政権を握った瞬間、それまでの思想はきれいサッパリと切り捨てる。説明も何もあったものではない。反対を押し切って開国を推進した直弼の方が、まだしも先見の明があったようにも思えてくる。