「本当に自然の風情を愛するためには、…
「本当に自然の風情を愛するためには、俳句や詩などを書かない方がよい」と詩人の西脇順三郎はいう(「日本人の旅行感覚」)。「一片の岩石にも、一片のブナの葉に対しても、自然の風情を感じる。そういう人は本当の詩人であろう」と。
西脇がこのような文章を書いたせいか知らないが、愛弟子で慶応大教授を務めた米文学者の故・鍵谷幸信さんは、詩を書かない詩人だった。直接尋ねたことがあるが、詩を書いたのは大学生の時だけ。
だが、周囲の文学者たちは誰もが彼を詩人だと認めていた。美術や音楽や詩の評論をよく書いたのだが、そこには豊かな詩情があって、その評論こそ詩だ、と感じる人が大勢いたのだろう。
家を訪ねると、応接室の壁面はレコードで埋め尽くされていた。ここでジョン・ケージやマルセル・デュシャンの話など聞いたのだが、その日の話題はピアニスト仲道郁代さんのコンサート。
よほど深く印象に残ったに違いない。1980年代末のことだ。その仲道さんが自伝ともいうべき著作『ピアニストはおもしろい』(春秋社)を上梓(じょうし)した。ドイツ留学を終えて日本でデビューしたのは87年秋と分かった。
当初から鍵谷さんは、この演奏家に熱い眼差しを注いでいたのだ。3歳半の時の写真が載っている。面白いことに、弾き方、姿勢、腕の位置、指の使い方は「今でもまったく同じ」。鍵谷さんに読んでもらいたかった本だ。