「西郷隆盛は漠然とした男、対して大久保…
「西郷隆盛は漠然とした男、対して大久保利通は截然(せつぜん)としていた」と勝海舟が語っている(『氷川清話』)。「漠然」たる大物である西郷が勝っていて「截然」と細かい大久保は劣る、というのが彼の評価だ。
こんな言葉を真に受けてはだめだ、と江藤淳は言う(『海舟余波』)。彼は単に西郷を与しやすかった男と見て、高い評価を下しているだけだからだ、というのが江藤説だ。
自分にとって役に立ったから西郷の価値を認め、仮に相手が大久保であれば、慶応4(1868)年4月の江戸開城は、あのようにはうまくいかなかった、と言っている。
確かに西郷には甘いところがあった。慶応4年以後、西郷は精彩を欠くことが多くなった。逆に大久保の実力が目立つようになった。海舟は薩摩の実力者だった両者の力関係が逆転する時期に西郷と提携することで、幕府側の損失を最小限に抑えることに成功した。
『氷川清話』は今で言えば海舟の談話録だが、インタビューが行われたのは明治30年代。西郷が西南戦争で戦死し、大久保も暗殺されてから20年もたっている。全ては昔の話、という調子で海舟はある意味気楽に語っている。が、暢気話とはいえ、西郷、大久保両巨頭の個性の一端は確かに伝わってくる。
その海舟が江戸の本所に生まれたのが文政6(1823)年のきょう。192年前の話だ。「明治は遠くなりにけり」(中村草田男)の感が深い。