<元日や手を洗ひをる夕ごころ>。何年ぶりか…
<元日や手を洗ひをる夕ごころ>。何年ぶりかで元旦の一日を自宅で過ごし、芥川龍之介のこの「畢生(ひっせい)の名吟」(加藤郁乎)の味わいを改めて実感した。
日本人なら、誰もが経験する元日の夕暮れ時の微妙な心持ちである。「元日を常に意識の上で標識として、年の瀬は過ぎて行ったのであるが、その元日もたちまち夕べとなってしまったのである。そのような微(かす)かな哀愁が、この句を陰翳(いんえい)深いものにしている」と文芸評論家の山本健吉は解説している(『定本現代俳句』)。
最近は海外で、英語などの外国語で俳句を作る人もいる。しかし、この俳句を直訳しては、その意味や味わいはまず伝わらないだろう。その気分を意訳してみても、なかなか難しいのではないか。
一年の始まりに寄せる日本人の一種、宗教的な思いの共有がなければ、元旦の夕方の独特な気分は分からないからだ。心の深いところ、文化の底にあるものを外国の人々に伝えることの難しさを思わずにはいられない。
今年も、国際関係で課題が山積みである。環太平洋連携協定(TPP)交渉もその一つだが、焦点となるであろうコメの問題など、われわれ日本人には特別な思いがある。
日本人にとってコメは単なる食料ではなく、文化の根底にあるものだ。こうしたことを、いかに外国の人々に分かってもらうか、日本人の表現力、伝達力、ひいては文化の発信力が問われる年となりそうだ。