「事件が新聞記事をもたらすのではない。…


 「事件が新聞記事をもたらすのではない。新聞記事が事件を必要とし、事件をつくるのだ」と批評家三浦雅士氏が書いている(『私という現象』)。30年以上も前のことだ 。

 当初は「?」と思ったが、よくよく考えてみれば、この逆説はポイントを突いている。新聞に限らない。事情はテレビであれインターネットであれ同じことだ 。

 「事件をつくる」とは、報道機関が犯罪を実行することではない。社会のある出来事を「事件」と認定し、報道することだ。ニュースがないと、メディアは困る。毎日、毎週、毎月刊行報道する以上、事件は起こらなければならない 。

 重要なはずのニュースがメディアで話題になることが少ない、と思われることがある。報道されなければ我々は知ることすらできないので、報じられてはいるのだが、なぜか重視はされない 。

 かと思えば、それほどでもない事件がことさら大きく報道されることもある。重要か否かの判断は様々だろうが、ニュースに接する者としては「これでいいのだろうか?」と思うこともしばしばだ 。

 Aという事件の直後、より重要なBという事件が発生すれば、Aは埋没する。重要と思われる事件がなく、どうということのないものしかない場合、大したことでなくても大きなニュースになる。「ニュースの谷間」に落ち込んだ関係者はたまったものではない。報道機関が「事件をつくる」側面は、確かにあるようだ。