1180年8月17日(旧暦)、源頼朝は伊豆で…
1180年8月17日(旧暦)、源頼朝は伊豆で決起し、現地の平家勢力を打ち破った。そこまではうまくいったが、その後残存の平家方から厳しい反撃を受けたため、頼朝主従は同月28日、真鶴(神奈川県小田原市の南)から小舟で逃亡した。小さな勢力だったと思われる。今からちょうど840年前の話だ。
一行は相模湾を横断、三浦半島をかすめるように進んで、房総半島の安房国(あわのくに)へ上陸した。現在の千葉県鋸南町。鋸山の南と伝えられている。
わわれわれはその後の頼朝軍の運命を知っているが、当時の頼朝主従にとっては極めて厳しい状況だった。
安房では北条時政(頼朝の妻政子の父)が頼朝を迎えたというから「非常の際は安房に逃げる」との約束があったのだろうか。または、時政がたまたま先着していたのか。
とまれ、命からがら逃亡に成功した頼朝一行は、房総の豪族らを従えつつ、東京湾沿いに北上。その後、今の東京付近から湾岸を南下して、10月6日に鎌倉に入った。逃亡以来1カ月半のことだ。
そのころの頼朝は強大な勢力になっていたから、際どい房総逃亡作戦は無事成功したことになる。早速10月20日には富士川の戦いで平家に圧勝。以後は幾つもの困難はあったものの、おおむね順調に事は運び、1192年の鎌倉幕府創設へとつながる。決起直後の房総逃亡劇が頼朝とその一行にとっては最大の危機だったが、結果としては逃亡からの大逆転劇となった。