「詩が純粋に結晶するのは、かえって詩に…
「詩が純粋に結晶するのは、かえって詩にとって不純な雰囲気のなかで創られるときにおいてだ」(『古典と現代文学』1955年)と文芸評論家の山本健吉(88年没)が言っている。
この言葉は、三浦雅士著『青春の終焉』(2001年)という本の中に引用されていたものだ。柿本人麻呂にとっては鎮魂の儀式、松尾芭蕉にとっては俳諧の「座」が不純な雰囲気に該当すると山本は続ける。
万葉時代の宮廷歌人だった人麻呂にとって、亡くなった貴人を鎮魂する歌を詠むことは重要な職務だった。人麻呂も人間だから、定められた期間の間に、そうそうたやすく詠めるわけでもなかっただろうが、『万葉集』に収録されている彼の挽歌(ばんか)は見事な結果を示している。
人麻呂より1000年後の芭蕉にしても、座という集団の場で俳句を詠む機会も多かった。座には芭蕉とは経歴も資質も違う他人が並んでいる。自由ではなく制約の中、俳句は創られた。
自分の思いだけを述べればそれでよいというわけにはいかない。慌ただしいガサガサした環境の中で、作品を創ることも多かったのだろう。
天才詩人といえども、ゆったりした中で余裕十分の心境で歌や俳句を詠んだわけではなかったという山本の指摘は、詩というものの成り立ちについて、われわれが漠然と想像するのとは違う要素が働いていたことを教えてくれる。半世紀以上も前の言葉が、21世紀の令和の今も新鮮なことに驚く。