2022年度から高校の国語の内容が変わる。…


 2022年度から高校の国語の内容が変わる。これについて「文学作品に触れる機会が減るのは危険」との反応も出始めた。その中には「文学は感性が全て」という根深い通念も含まれる。「文学離れ」によって、人間の感性を育てる機会が失われるとの懸念だ。

 それに対して「登場人物の人間関係を把握するのは感性よりも論理」との議論もある。確かに、夏目漱石や森鴎外の作品などは「感性が全て」と言い切れない部分が多い。漱石、鴎外と川端康成を比べてみれば、感性の部分は川端の作品の方が漱石、鴎外より圧倒的に大きい。

 漱石、鴎外は、昔は「高踏派」と呼ばれた。「上から目線」という意味だ。高い位置から偉そうにものを言うということで、否定的な意味合いを持っていた。

 その半面、文学作品は「論理が全て」とは言えないことも確かだ。同じ作品の同じ場面であっても、受け取る側の印象はさまざまだ。その違いは感性によるのだから「文学作品にとって感性の部分は重要」という考え方は十分に成り立つ。

 「感性と論理」と二つの類型に分けて固定的に考え過ぎない方がよさそうだ。「感性か論理か」ではなく、読み継がれる作品(作家)と消えていく作品(作家)の区別は厳然と存在する。

 こればかりは歴史が判断するものだから、どうにも仕方がない。が、敗者復活のように、いったん消えた作品が100年後に再評価されることが時にはある。それはそれで面白い。