政教「完全」分離を唱え「即位の礼」に注文を付ける朝・毎・東の時代錯誤
◆社民・共産と同意見
風雨から一転、日が差し、空に虹が懸かった。こんな空模様の移ろいはそうそうない。先の「即位礼正殿の儀」。高御座(たかみくら)の帳(とばり)が開き天皇陛下のお姿が初めて見える「宸儀初見(しんぎしょけん)」、即位を宣明される「おことば」、そして内閣総理大臣の「寿詞(よごと)」と万歳三唱。平安王朝の絵物語を彷彿(ほうふつ)させる古式ゆかしい一連の儀式に国民はもとより、180カ国からお見えになった外国賓客も魅了された。
ところが、朝日は「即位の礼 前例踏襲が残した課題」(23日付社説)で、こんなことを言う。「天孫降臨神話に由来する高御座に陛下が立ち、国民の代表である三権の長を見おろす形をとることや、いわゆる三種の神器のうち剣と璽〈じ〉(勾玉〈まがたま〉)が脇に置かれることに、以前から『国民主権や政教分離原則にそぐわない』との指摘があった」
いったい誰が指摘していると言うのか。産経の阿比留瑠比・論説委員兼政治部編集委員は24日付『極言御免』で、この朝日社説が社民党の又市征治党首のコメントとそっくりだとし、「社民党と朝日は双生児か」と首を傾(かし)げている。
そう言えば、共産党もそっくりだった。同党は儀式を欠席したが、その理由を「高御座の上から天皇が即位を宣し、その下で三権の長が『天皇陛下万歳』と声を上げる儀式のやり方は明治時代のやり方を引き継ぐもので、憲法の国民主権、政教分離の原則に反する」(小池晃書記局長)としている。双生児どころか三つ子だった。
◆儀式には宗教的背景
朝日の言うところの「指摘」は、どうやら共産系政党や左翼学者から出されているようだ。東京21日付社説「即位の儀式 象徴天皇にふさわしく」、毎日23日付社説「陛下の即位の礼 多様性尊ぶ国民の象徴に」も同様の政教分離原則論を唱えている。
では、即位式に参列された賓客はどうだろう。おそらく誰一人として国民主権や政教分離の原則に反すると考えられまい。民主主義の国を見ても、チャールズ皇太子が参列された英国はマグナ・カルタ以来、アングリカン・チャーチ(英国国教会)を国教に据え、国王の戴冠式も葬儀も、全て国教会の儀式で行う。米国では聖書に手を置いて大統領就任宣誓式を行う。だからといって政教分離違反と批判されることはない。
左翼思想の元祖とされるフランスの政治学者ジャン=ジャック・ルソーでさえ、「国家は宗教を礎とすることなく創設されたことは決してなかった」(『社会契約論/ジュネーヴ草稿』)と述べている。英国の歴史学者トインビーが指摘するように「文明は偉大な宗教とともに始まった」からだ。
どの国でも歴史的伝統行事に宗教的背景があるのはそのためだ。だから皇室の伝統儀式も神道儀式を抜きにあり得ない。憲法7条10号は「儀式を行ふこと」と儀式を国事行為に挙げるが、即位礼がその儀式に該当しないなら、何が10号の「儀式」なのか、首をひねるしかない。
民主主義国では信教の自由に反したり、他の宗教を圧迫したりしない限り、宗教との関わりを否定しない。わが国でも三重県津市の地鎮祭をめぐる違憲訴訟で、最高裁は「社会事象としての広がりを持つ宗教と国家や公共団体は完全に無縁でありえない」とし、「特定の宗教を助長し他の宗教を圧迫する効果を持つと認められる活動でなければ『宗教的活動』に当たらない」との判断を示している(1977年7月)。
◆「神道指令」想起さす
即位の礼が他の宗教を圧迫したという話はとんと聞かない。それでも政教「完全」分離を唱えるのは、まるで占領下の連合国軍最高司令部(GHQ)による「神道指令」(45年12月)を彷彿させる。それとも、レーニンが110年前に唱えた「宗教への妥協なき闘争」(『唯物論と経験批判論』)の焼き直しだろうか。
朝毎は11月の大嘗祭に向けて現代版「神道指令」を発するつもりなら、時代錯誤と言うほかない。
(増 記代司)