歌人の俵万智さんが「平和や安全が当たり前…
歌人の俵万智さんが「平和や安全が当たり前になってはじめて、寛容、多様などの価値観が必要という発想が出てくる」と新聞に書いているのを見て驚いた。「平和は当たり前」という言葉に衝撃を受けたのだ。
「平和が続く」時代は確かにあった。縄文時代は戦争が少なかったと言われる。それが弥生時代に入ると増大する。弥生人の遺骨には、武器による攻撃の痕跡が認められるものが多い。
平安時代は名前の通り、おおむね平和だった。幕末期を除く江戸時代も、ほぼ平和だった。しかし「平和は当たり前」という発想は聞いたことがない。こうした考えは、そもそも歴史上存在しなかった。むしろ、平和であり続けるために努力を払ってきたのが人類の歴史だった。
このような努力を全く顧みない点で、平和を当然のものだと考えることは異様だ。平和は人為的につくるものであって、何の努力もすることなく「平和、平和」と唱えていればいいというわけではない。
「平和ボケ、ここに極まれり」の感がある。そこには「現実を見なければいい」という発想がある。見ないのは自由だが、世界で戦争はなくならないという厳しい現実は残る。
「地震は起こらない」と言えば、少なくとも日本人の中では非常識とされるだろう。ところが、なぜか「平和は当たり前」という言葉は気軽に言われてしまう。怠惰なのか傲慢(ごうまん)なのか分からないが、奇怪な発想であることに変わりはない。