マルクスの言う「妖怪」を想起させるLGBT支援派による言論つぶし

◆批判一切許容せず

 かの有名なマルクスの『共産党宣言』(1848年)は「一個の妖怪がヨーロッパに徘徊している。共産主義という妖怪が」との書き出しで始まる。昨今のLGBT支援のマスコミ報道に接するたびに、この一文が脳裏をかすめる。批判は一切、まかりならぬ。そんなマスコミの居丈高な姿はまるで何かに操られているようで、LGBTが妖怪のように見えてくるからだ。

 自民党衆議院議員の杉田水脈氏がLGBT支援に否定的な寄稿を新潮社の月刊誌「新潮45」(8月号)に寄せたが、LGBT支援派はその中の「子供を作らない、つまり『生産性』がない」の一文だけを取り上げ袋だたきにした。

 これに対して同誌10月号は「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」の特集を組んだ。これにも支援派がバッシングし、新潮社は同誌の休刊を決めた。その経緯については本紙9月29日付「論壇時評」の「杉田論文騒動の第2幕/肥大化するLGBT運動/『新潮45』休刊で批判萎縮を危惧」(森田清策氏)をお読みいただきたい。

 さて、ここまで数えてみてもLGBTを5回書いたが、それを日本語で記すのをあえてスルーした。本紙は「いわゆる性的少数者」とする。いわゆるとは「世間で言われている。俗に言う」(広辞苑)で、LGBTとは俗に言う「性的少数者」なのだ。だが、新聞に意味不明な説明もある。

◆故意に性愛から逃避

 例えば、読売である。今年1月11日付家庭面「平成の人生案内」はLGBTについて次のように書く。

 「L=レズビアン(女性を好きになる女性)、G=ゲイ(男性を好きになる男性)、B=バイセクシュアル(好きになる相手の性別を問わない人)、T=トランスジェンダー(身体的な性と心の性が一致しない人、性同一性障害の診断名)を組み合わせた言葉。性的少数者の総称の一つ」

 何のことか、お分かりになっただろうか。「好き」を並べてごまかしているとしか思えない。LGBTのうち、LGBは同性愛と両性愛を言い、単に「気に入った」といった気持ちの問題でなく、性愛を指す。つまり「誰を(性愛の)対象にするか」という「性的指向」の問題だ。それを「好き」と書く読売は意図的に「性愛」から逃避したのだろうか。

 Tについては読売の説明に異論はない。厚生労働省が性同一性障害を「生物学的性別(セックス)と性別に対する自己意識あるいは自己認知(ジェンダー・アイデンティティー)が一致しない状態である」と定義するようにTは精神疾患だ。2003年に治療の効果を高め社会的不利益を解消するため性同一性障害特例法が制定された。つまり「性自認」の問題だ。

◆当事者も混同を批判

 「性自認」(自らの問題)と「性的指向」(他者との関わりの問題)という異質のものを一緒くたにLGBT、「性的少数者」とするのは、いかにも怪しい。事実誤認ではないか。

 興味深いのは当事者らがLGBとTの一緒くたを批判していることだ。毎日6月14日付はメディアの取材を受けた経験のある当事者(いわゆる性的少数者)にアンケートしたところ、当事者の多くが「性的指向」と「性自認」の混同を批判し、「それぞれ抱える問題や、社会に求められる対応も異なる」と指摘したとしている。当事者自身が批判しているのに新聞はいつまでLGBTと書くのだろうか。

 「新潮45」休刊に話を戻すと、社説を掲げたのは朝日、毎日、産経、東京の4紙(9月30日現在)で、いずれも唐突な休刊を批判する。杉田バッシングの朝毎東については今さら言うまでもないだろう。

 特筆すべきは産経だ。28日付主張「『言論の場』を閉ざすのか」は「記事掲載の検証作業や執筆者の反論を待たずに事実上の廃刊を決めたことは、言論の場を閉ざし、新たなタブーを生むことにつながる」とし「議論には忌憚なく、多角的な視点が求められる。そこに扇情的、刺激的な言葉はいらない」と、LGBT支援派の言論つぶしを批判している。

 産経が指摘するLGBT支援の「扇情的、刺激的な言葉」にマルクスの言う「妖怪」を想起させるのだ。本紙30日付社説「都LGBT条例案/家族破壊に利用される」を読めば、その妖怪の姿が浮かんでくるはずだ。

(増 記代司)