「歴史小説家や脚本家は、古文書は読めなく…


 「歴史小説家や脚本家は、古文書は読めなくても、たいてい、情報検索は巧(うま)い。そのせいか、どの歴史小説を読んでも、情報が金太郎飴のように似ている」と、歴史学者の磯田(いそだ)道史(みちふみ)氏が指摘している(『日本史の内幕』中公新書)。

 面白い歴史小説が少なくなった理由の一つが、作家や脚本家が同じ文献しか読んでいないためというのは十分あり得る。

 最近は歴史学者による1次史料(古文書、手紙など)に基づいた歴史書(フィクションではない)が書かれることが多い。昔は、歴史小説家が歴史書を書くこともあったが、そういうケースはめっきり減った。「作家から学者へ」という流れができている。

 古文書が読めない歴史小説家の方が多数だろうが、作家が古文書を読めなければならないというルールがあるわけではない。史実も重要だが、歴史小説の場合、想像力がポイントになることは、小説である以上当然だ。が、想像力もそうそう出てくるわけではない。タイムスリップして過去へ行ってしまうという手法もいずれ飽きられる。

 世界も社会も複雑化している。データばかりが氾濫する中、21世紀は想像力が発揮しにくい時代だ。集団によって蓄積される知識や情報に、個人である作家の想像力は太刀打ちしにくい。

 実態は、歴史小説に限らず小説全般が不振だ。作家の想像力が追い付かない点では歴史小説と変わりはない。小説にとって試練の時代がしばらく続きそうだ。