日本の良さ教える申尚穆氏
伊能忠敬の生涯を紹介 探究心、実行力を高く評価
日本の良さを外国人から教えられることがある。普段日本を「歴史上これ以上悪辣(あくらつ)な国はない」と罵(ののし)っている韓国人から評価の言葉を聞くと、驚く半面、底意は何かと、いらぬ気を回してしまう。が、素直にその評価を聞いてみよう。
この欄でも数回紹介したことがある韓国ソウルの日本式うどん屋「桐やま」代表の申尚穆(シンサンムク)氏が、「月刊朝鮮」で連載しているコラム「外交官出身うどん屋主人の日本物語」(5月号)で伊能忠敬(1745~1818年)を取り上げた。申代表は何を韓国の読者に伝えようとしたのだろうか。
伊能は江戸時代の後半、日本の海岸線を正確に測量した人物である。しかも、50歳で家業を長男に譲って引退し、その後、天文学を志して江戸に出て、19歳も年下の天文方(幕府の天文、暦担当官)の高橋至時に入門して猛勉強した。正確な暦を作るためには地球の大きさを正確に知る必要があり、そのためには子午線の距離を測らなければならなかった。
伊能は江戸から蝦夷地の北端まで歩いて実測し、2地点から北極星を見る角度を測って割り出そうと考えた。申氏は「この決心が人類文明史に遺(のこ)す偉大な地図の誕生につながるとは伊能自身も考えもしなかった」と紹介する。55歳から測量を始め、73歳で没するまで、蝦夷のみならず日本全国の測量を行った。「大日本沿海輿地全図」が完成したのは伊能の死後だ。
今回の申氏の原稿は大部分を伊能忠敬の生涯の紹介で終わっている。おそらく“勉強原稿”で、資料や書籍に当たってまとめたものだろう。しかし、申氏を批判できる日本人は多くない。ほとんどの日本人も伊能忠敬の生涯を書籍であれ、なぞってみたことがあるのは少数だ。この原稿は韓国人に読ませることを前提としているが、日本人が読んでも、伊能の生涯と業績を知ることができる。
さて、韓国朝鮮に同じような地図を作った人物はいなかったのだろうか。「大東輿地図」を残した金正浩(キムジョンホ)がいた。「19世紀末に近代作図法でなく、自らの方式で相当な水準の地図を製作できたことは、(欧州文明を除けば)朝鮮の科学技術水準が当時、世界的水準に照らしてみて遜色がなかったことを示す事例だ」と申氏は誇る。
ただし、伊能の生涯が詳しく残されているのとは対照的に、金正浩の生没年は不明だとし、その生涯も詳しくは残されていない。さらに、伊能が老年になって自らの足で全国を踏破したのに対して、金正浩は“歩いていない”のだ。多くの資料を集め、それを基に作図したのだという。この点について、申氏の原稿では言及がない。金正浩も“勉強原稿”だったのである。
イギリスは日本の沿岸を測量していたが、伊能図を見せられて、その正確さに驚き、作業を中止してしまった。伊能図で十分だったのだ。未開の非文明国だと思っていた日本が世界レベルの高い技術を持っていた。伊能の子孫は忠敬の功績により幕府から苗字帯刀を許されている。地図はシーボルトが持ち出そうとして発覚し、国家機密に指定された。地図はその時代のその国の技術水準を計る。金正浩が地図をまとめたのは伊能図から40年後だった。
韓国では伊能図と金正浩図を比較して、「伊能図は海岸線と道路、田畑、湖水、島などで終わっているが、大東輿地図は半島全域の地形と道、22種の地形物を表記してあり、単に測量だけした伊能と比較することは意味がない」という地理空間計測専門家の見方がネットなどで出回っているという。
「比較する意味がない」には同感する。実測と“勉強”では価値が全く違うからである。申氏は、「こういう文章を見るたびに、もどかしくなる」と結んでいるが、伝えたかった日本人の探究心、実行力、達成力、科学の精神が理解されない危惧をあらかじめ持っていたようだ。
編集委員 岩崎 哲










