「謝罪会見」という言葉は今後重みを増して…
「謝罪会見」という言葉は今後重みを増してきそうだ。事件やスキャンダルなどを起こした有名人にとって、謝罪会見は死活的に重要で、通過儀礼のようなものになっている。
事件以上に、会見の印象がその後を左右するとも言われる。裏を返せば、会見さえうまくやれば、事件の印象を薄めることもできる。要は、会見を取り仕切る芸能リポーターらを納得させればいいだけの話だ。
うまく切り抜けることがポイントだから「その場しのぎ」でも一向に構わない。「短く回答すること」という危機管理会社のアドバイスも「多くを語ると、リポーターらに余計な情報を与えるから」との理由によるもののようだ。
切り口上の回答や「リハーサルしたんじゃないの?」と疑われるような淀みのなさには重々注意した方がいいのだろう。しかし、そこを何とか切り抜ければ「それで終了」というケースもある。
ただし謝罪である以上は、無条件降伏でなくてはならないし、言い訳や弁明、ましてや開き直りは禁物とされる。戦後、小林秀雄が戦争責任について問われた時、「自分はバカだから反省なぞしない」と答えたようなやり方は、今時の謝罪会見では許されない。
こんな会見など、はたから見ればバカバカしい話だが、欧米流の訴訟文化に対して、日本流の謝罪文化がますます進行していることは、現実として認めないわけにはいかないようだ。