グローバリズムから家庭守れ
九州大学教授・施 光恒氏
英国の欧州連合(EU)離脱と「米国第一」を掲げたトランプ前米大統領の登場は、ポスト・グローバリズムの世界を目指す動きだったが、日本ではその意義が正しく議論されていない。
日本でグローバリズムを批判すると、鎖国主義者、孤立主義者と受け止められる。だが、グローバリズムとは、国境や国籍を取り払い、画一的なルールに基づく世界をつくろうという話だ。これに対し、英国のEU離脱やトランプ氏の登場は、帝国主義的な秩序を脱して国民主権を回復し、さらに各国の多様な在り方を可能にする世界をつくろうという動きだった。
従って、グローバリズムの反対概念は鎖国主義、孤立主義ではなく、「国際主義」なのだ。こうしたビジョンがあることを、トランプ氏が国連演説で残したことは、後に続く者にとって偉大な功績だろう。
日本ではグローバリズムと孤立主義のどちらを選ぶのかという論法で語られ、その中間に国際主義、つまり「多数の国々からなる世界」という最も有効な選択肢があることが全く認識されていない。この状況は、日本の針路を誤らせると大いに危惧する。
日本では保守論壇でもこうした議論があまりされていない。
日本の保守論壇には冷戦時代の図式が残っている。保守派は反共産主義、親市場経済、左派は親共産主義、反市場経済という図式だ。保守勢力であるはずの自民党も大多数が市場経済万歳で、なおかつグローバリズムも大賛成だ。市場経済の貫徹の結果がグローバリズムだが、保守派はこれを否定してはならないと思い込んでいる。
保守派が大切にしてきたのは、市場経済と家庭・地域共同体だ。グローバリズム以前の1980年代までは、これらをなんとか両立できていたが、今は市場経済が行き過ぎてしまい、家庭と地域共同体が壊れつつある。その結果、文化や伝統も失われている。
保守派が保守すべきは、市場経済と家庭・地域共同体のどちらか。それは当然、家庭と地域共同体だ。国家は行き過ぎた市場経済を調整し、グローバルなマーケットの力から家庭と地域共同体を守らなければならない。ハゾニー氏の主張が重要なのは、保守の立場から国家の役割を改めて論じていることだ。
ハゾニー氏は、国民国家を祖先から共通の文化遺産を受け継いだ家族のような枠組みだと定義している。国民が互いを同胞と認識するからこそ、他者への寛容な心が生まれる。これこそがハゾニー氏の言う「ナショナリズムの美徳」だと思うのだが。
ハゾニー氏は本書の最後で、「多様性に対する寛容さや理解を確立」するのはナショナリズムだけだとはっきり書いている。
戦後の日本では、ナショナリズムは危険なものだと認識されているが、決してそうではない。自分が自分の国を愛するように、他国の人々も自分たちの国を愛する。それを互いに認めるのが本来のナショナリズムだ。自国以外は認めないというのは、ナショナリズムではなく帝国主義と言った方がいい。
ナショナリストは、自国の文化や伝統、言語に愛着と忠誠心を抱くと同時に、その限界も知っている。限界も知っているからこそ、他国の在り方に対して敬意を払い、関心を持つことができる。それによって各国は互いを尊重しながら交流できるのだ。寛容さはナショナリズムの美徳の一つであり、画一的な在り方を押し付けるグローバリズムからは生まれない。
(聞き手=編集委員・早川俊行)