故中曽根元首相の警鐘 憲法の欠陥、早急に是正を

《 記 者 の 視 点 》

 令和元年もあと残すところ4日となった。新しい年、2020年を新しい心で迎えるためには、旧年をうまく送らなければならない。政界では今年、多くの先達が亡くなったが、その中でも101歳の天寿を全うした中曽根康弘元首相は別格だ。そこで、重厚な「贈る言葉」でもあればいいのだが、残念ながら、記者の政治部経歴はちょうど中曽根政治に事実上、終わりを告げた1987年10月31日から始まった。

 当時、ニューリーダーといわれた自民党の竹下登幹事長、安倍晋三首相の父である安倍晋太郎総務会長、宮沢喜一大蔵大臣の3人のうち、中曽根首相が竹下氏を後継に指名した、いわゆる中曽根裁定の日だ。当時、記者は竹下、安倍両陣営の選対事務所があった赤坂プリンスホテル(通称、赤プリ)に詰め掛けた取材陣の中で、竹下陣営の会見場などを右往左往していた。

 中曽根氏の現役時代の取材はその程度だが、就任後の電撃的な韓国訪問やレーガン米大統領との“ロン・ヤス”関係、86年衆参同日選大勝など、派手なパフォーマンスと共に外交、内政の勘所をつかんだ政治を行っていることは感じていた。

 後に、そのような活躍の背景には、海軍での戦争体験があり、昭和22年の初当選の時から「将来総理になったら何をやるか」を書き留めておいたり、各界の人脈作りに励むなど、高い志と周到なる準備があったことを知ったが、何よりも驚いたのは、学生時代にカントの『実践理性批判』を読んで、「それをなぞるようにして生きていた」(『自省録』)と記していることだ。

 「わが内なる道徳律が確かに存在し、私もこれに従って行動してきた」と断言するなど、哲学的、道徳的な深みを持ちながら、“俗物中の練達者”の最高位に上り詰めたことは奇跡的とも言えるのではないか。

 記者が直接接した中曽根氏は、北朝鮮の核問題や日韓関係に心を砕き、ライフワークの憲法改正に執念を燃やす若々しい老政客だった。特に、2017年5月、白寿を目前にして改憲派の集会で演説したことは記憶に新しい。

 『自省録』(04年出版)の最後に、中曽根氏はなぜ憲法改正を主張してきたかを書いている。戦前、大衆の熱狂の中、日本を敗戦に導いた軍部暴走を許す根拠となった旧憲法の規定(統帥権独立の保証)を是正できなかったことへの反省だ。

 「明治憲法で統帥権独立を是認するとした条文は、大正時代に憲法を改正して削除しておくべきでした。…明治の元勲がいたからこそ、人間力で統帥と国務を統合できたのです。…元勲たちが亡くなってから、この二つは分裂し、大東亜戦争を引き起こしました。今の日本国憲法にも、同様のことが起こりうるのです」(『自省録』)

 戦前を知る世代が警鐘を鳴らす「憲法の陥穽(かんせい)」はまだ残っている。中国の膨張や北朝鮮の核・ミサイル開発など高まる安保危機に的確に対応する根拠がない現憲法の欠陥を是正する新年となることを願うばかりだ。

 政治部長 武田 滋樹