「古代の饗宴は暴力的だった、それは飢え…
「古代の饗宴は暴力的だった、それは飢えと結びついていたからだ」という学者の記述を読んで虚を突かれた。昔の酒宴が暴力的だった話は知っていたが、根源に飢餓があったとは思い至らなかった。
柳田国男の「酒の飲みようの変遷」(昭和14年)という論文には、儀式として集団で飲酒するのが圧倒的に多かった時代から、個人が自宅で飲酒するというスタイルが多く行われる時代へと変化してきたという記述がある。「公」から「私」への変化だ。
柳田説は納得できるが、飢餓への言及はなかった。だが古代は、そこそこの役人にとっても、飲酒の場は堂々と飲み食いできる稀(まれ)な機会だったようだ。その背後には厳しい飢餓の記憶があったという話は、われわれがうっかり忘れていたものを思い出させる。
『徒然草』(175段)には、酒を無理に飲ませて面白がる風への嫌悪感を記述した箇所がある。同じ風習は、21世紀の今もアルコールハラスメントという形で残っている。酒を強いる人間にどれほどの自覚があるかは知らないが、そのはるか底には飢餓の記憶が潜んでいるのだろう。
河上徹太郎の文章には「酒の席にそういう秋霜烈日の如きものがあった」という記述がある。飢餓とは違うだろうが、小林秀雄ら文学者の間では口舌の真剣勝負が連日行われていた。昭和1桁の時代だ。
この種の風は30年ぐらい前までは普通だったが、徐々に行われなくなった。何かが変わったのだろう。