壕の提供 「軍の命令」記入で援護対象に
「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (2)
昭和31年(1956年)、戦闘参加者の範囲を決定するため、厚生省援護課の職員らが沖縄に派遣され、沖縄戦の実態調査を行った。琉球政府社会局が昭和33年に発行した援護法関係出版物「援護のあゆみ」によると、沖縄県遺族連合会が職員と協議会を重ね、集団自決や壕の提供などの事例についても援護法が適用されるよう強く求め、厚生省に陳情した。 戦争の実態調査や要望を踏まえて厚生省援護課は、昭和32年7月、援護法の適用例を20種の分類で示した「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」を発表した。これまであいまいだった「戦闘参加者」の定義がこれによって明確になった。「戦闘参加者」の分類は以下の通りだ。
(1)義勇隊(2)直接戦闘(3)弾薬・食糧・患者等の輸送(4)陣地構築、(5)炊事・救護等雑役(6)食糧提供(7)四散部隊への協力(8)壕の提供(9)職域(県庁職員報道)関係(10)区(村)長としての協力(11)海上脱出者の刳船輸送(12)特殊技術者(鍛冶屋)(13)馬糧蒐集(14)飛行場破壊(15)集団自決(16)道案内(17)遊撃戦協力(18)スパイ嫌疑による斬殺(19)漁撈勤務(20)勤労奉仕作業。
20項目のいずれかに該当すれば、一般住民であっても軍属・軍人と同様に「戦闘参加者」として認定され「準軍属」に扱われた。その場合、軍命令に従い、「自己の意思」で戦闘に参加・協力したか否かだけが問われることとなった。当初は「小学校適齢年齢6歳以上」とされた。
しかし、当時の厚生省、琉球政府、市町村、そして、遺族という四者の共同作業により、6歳未満にも援護法が適用されるようになった。
金城和信遺族連合会会長(当時)は「援護のあゆみ」の中で、「遺族は勿論全住民が一体となってこれら戦没者の報国の精神に充二文(ママ)に応えるべく全機能を上げて一人でも時効失効なき様処理に万全を期さなければならないと強く日本政府及び琉球政府に訴えるものであります」と述べている。
実際に「戦闘参加者」として援護法の申請をした事例を示す、沖縄県公文書館に保管されている「現認証明書」(請求時の障害が公務上の傷病であることを認めることができる書類)の文面を引用する。
<右は昭和二十年六月二十日沖縄本島摩文仁村字摩文仁付近の戦闘間に於て球部隊司令部の下士官兵数名に避難壕を立ち退くよう要請され止むなく同壕を戦闘員のため提供して立ち退き、他の壕を求めて移動する際、至近に砲弾炸裂し、全身に砲弾破片創を負い、即死したことを同一行動中に確認致しましたのでその事実を証明します。 一九六〇年二月二十日>
沖縄県遺族連合会のある幹部は「軍に積極的に協力して戦死したという表現でも厚生省から突っ返されました。『軍の命令によって』と書き込んで再送して受理されました」と振り返る。そこで、現認証明書に「軍の命令・要請による」という虚偽事実の記入をしたが、そのうち大半が「壕の提供」に関する内容だったという。
(「沖縄戦の真実」取材班)