「残虐な日本軍」は濡れ衣 遺族が長い沈黙破る
「援護法」に隠された沖縄戦の真実(1)
毎年、6月23日の「慰霊の日」前後には、沖縄メディアが一斉に特集を組み、沖縄戦の「記憶の継承」という名目で反軍感情をあおる。
読者が目にするのは、日本兵に「壕を追い出された」、「食糧を強奪された」、「自決を命令された」など、旧日本軍の悪行を糾弾する記事のオンパレードだ。旧日本軍を糾弾するだけでなく、戦後、米軍基地が置かれている状況に対して政府への不満をむき出しにする。
果たして日本軍は悪行の数々を重ねていたのだろうか。また、何ゆえ沖縄メディアはこれほど執拗に日本軍の糾弾に狂奔するのか。
沖縄戦の真実に迫ろうとすると、「援護法」という大きな壁に突き当たる。援護法とは、正式には昭和26年(1951年)に成立、翌年4月に公布された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」である。援護法の目的について、第1条にはこう書かれている。
「軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属等であった者又はこれらの者の遺族を援護することを目的とする」
軍属等に含まれるとされた「準軍属」とは、旧国家総動員法による徴用者や戦闘参加者、義勇隊、特別未帰還者などを指す。すなわち、軍などから要請を受けて戦闘などに協力した者である。
援護法は昭和28年4月、「南島諸島に現住する者に対し、戦傷者戦没者遺族等援護法を適用する場合の取扱について」と題する通知により、沖縄在住者に適用された。沖縄県福祉・援護課によると、援護法により救済された戦没者等は、軍人・軍属が2万5千人、一般県民(戦闘協力者)5万5千人で沖縄県民の全戦没者の7割近くに及ぶ。
昭和34年には、一般住民も「戦闘参加者」として援護法が適用拡大された。本来、軍人・軍属・準軍属にしか適用できないものだが、日本軍の「命令」「要請」があったと申請すれば沖縄の民間人も給付が受けられるようになった。
当時の厚生省と県や市町村、遺族らとの共同作業に基づく寛大な措置が「残虐非道の日本軍」という神話を生む素地になった。沖縄メディアが機会あるごとにあおる「日本軍の悪行」の記事・報道を忸怩たる思いで眺めながらも、これまで口を固く閉ざす人々がいた。援護法の成立から申請業務に関わり、誰よりもその「民間人への適用」のために強いられた矛盾を承知している遺族会のメンバーだ。
戦後すでに68年が経過している。遺族会にも援護法成立当時の事情を知る人が少なくなってきた。沖縄県および各市町村が発行する戦史には、沖縄防衛のために命をささげた日本軍の将兵を悪鬼のごとく罵倒する言葉が並ぶ。沖縄県平和祈念資料館(糸満市)の展示も例外ではない。
「沖縄戦を捏造されたまま放置してはいけない」「あの世で英霊たちに会っても申し訳が立たない」
このたび、遺族会の幹部が、長い沈黙を破って、援護法関連の資料を提供してくれた。その中で、援護法を一般住民の遺族に適用させるため、歴史を歪曲してしまったことが、県が作成した極秘文書により明らかになった。
メディアが喧伝する「残虐非道な日本軍」の象徴が、慶良間島の集団自決だ。「住民を軍命で集団自決に追いやった」とされる梅澤裕、赤松嘉次両隊長は極悪人として糾弾されている。
沖縄メディア、沖縄教職員組合(沖教組)、自治労などの反日左翼勢力が、援護法のからくりを利用した。「軍命に従い犠牲となった人」を対象とする援護法は、「残虐な日本軍」のイメージを捏造しようとする左翼勢力には都合の良いものだったからだ。
援護法の拡大適用は、無慈悲で残酷な日本兵像を作り上げた。これが、沖縄の現在に至るまでの反日感情や自虐史観を形成する一因となっている。援護法の仕組みを明らかにすることにより、濡れ衣を着せられた日本軍将兵の名誉を回復させたいというのが遺族の願いである。
(「沖縄戦の真実」取材班)