異色の独首相メルケル氏、危機乗り越えた16年


政治観は現実主義、難民危機で失速、総選挙後に引退へ

異色の独首相メルケル氏、危機乗り越えた16年

ドイツのメルケル首相=10日、ベルリン(EPA時事)

 ドイツのメルケル首相(67)は、9月の総選挙に出馬せず、引退する。プラグマティズム(現実主義)と時代を読む嗅覚で幾多の危機を乗り越え4期16年を務め、戦後ドイツが「欧州の盟主」に成長する様を見届けた。ただ、2015年の欧州難民危機ではバランス感覚に鈍りが生じ、極右台頭という負の遺産も残した。

 旧東独の物理学者だったメルケル氏は1989年、35歳でベルリンの壁崩壊を目撃し、政治を志す。翌年の東西統一時、所属政党が吸収される形でキリスト教民主同盟(CDU)に入党。西独を主要基盤とする保守政党CDU内では、東独で育ち、離婚歴がある女性という異色の存在だった。当時のコール首相の後ろ盾はあったが、党内基盤も弱かった。

 しかし環境相などを歴任し頭角を現すと、闇献金疑惑で糾弾されたコール氏を追い落とし、2000年に党首、05年には首相に就任。ポツダム大学のゲッペルト教授(歴史学)は「アウトサイダーとして驚異的な成功。時機をつかむ才能と戦術眼があった」と分析する。

 一方、政策面で一貫性を欠き、「大きなビジョンがない」との批判もある。東西統一の後遺症で低成長にあえいだ00年代前半は、野党党首として解雇規制緩和など新自由主義的改革を主張し、サッチャー元英首相になぞらえ「独版鉄の女」と称された。

 ところが首相就任後に経済が上向くと、最低賃金制度など左派的政策を推進。11年3月の東京電力福島第1原発事故後は、前年に決めた原発稼働期間延長を撤回し、脱原発を決定した。欧州政策では、マクロン仏大統領が欧州連合(EU)共通の軍創設などを打ち出しているのと比べ、大胆な提案は少ない。

 メルケル氏の伝記を今年出版したジャーナリストのラルフ・ボルマン氏は「彼女の政治観は現実主義。妥協は民主主義の最も重要な要素だと繰り返している」と指摘。時宜に応じた現実的解決策を、妥協を通じ見いだすことが真骨頂だと語る。妥協や調整能力は、数々の外交・経済危機で本領を発揮。特にギリシャ財政危機に端を発した10年代前半のユーロ危機では、度重なるEU各国首脳との交渉に奔走し、ギリシャのユーロ圏残留にこぎつけた。

 しかしその神通力が発揮されなかったのが、15年の難民危機だった。同年夏、ドイツへの移動を求めハンガリーとオーストリアの国境に難民が殺到した。時間との闘いを迫られたメルケル氏は、一時的措置として受け入れを決断。これを受け100万人超の難民がドイツに殺到した。

 メルケル氏が決断に至ったのは、東独での経験で人権や民主主義の重要性を痛感していたためとの見方が強いが、皮肉にもその旧東独地域で難民への反感が強まり、極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が台頭。AfDに保守票を奪われたCDUは地方選で連敗し、18年のメルケル氏の引退宣言につながった。今やAfDは国政の最大野党で、メルケル時代最大の負の遺産とも言われる。

 実際の引退は総選挙後に連立交渉が決着してからとなる。メルケル氏は7月の最後の訪米で、引退後について問われ「習慣的にやるべきことをあれこれ考えた後、今は別の人がやってくれるのだと思い当たる。それは心地良いことだろう」と、休息を心待ちにする心情を吐露。国民人気は高いが、表舞台から退く意志は固そうだ。(ベルリン時事)