平成の終わりと吉田茂 時代の流れを読んで変革を
《 記 者 の 視 点 》
「曲学阿世の徒」などというと、いつの時代の話かといぶかる人も多いだろう。第2次大戦で連合国に敗れ占領下に置かれた日本が連合国と講和条約を結んで独立を回復するに当たり、ソ連など共産主義国を含む“全面講和”を主張する東大の南原繁総長に対し、米英など自由主義国との講和を推進する吉田茂(元首相)が1950年5月、自由党両院議員総会で述べた言葉だ。
「南原総長らが主張する全面講和は曲学阿世の徒の空論で、永世中立は意味がない」
既に東西冷戦は紛れもない現実となっていたが、当時のマスコミや知識人、革新政党は米国と政府が進めるソ連を除く“片面講和”反対の論陣を張っていた。また、マッカーサーが占領当初夢見たと言われる「永世中立化」を望む声もあった。それでも共産主義の本質を知る吉田は自由主義陣営入りに迷わなかった。
もう一つ、吉田は51年9月、米サンフランシスコで講和条約を結んだ日の夕方、別会場で旧日米安保条約を結んだ。マッカーサー3原則に基づきGHQが作った草案に従って憲法改正を実行した張本人ではあるが、前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」し、9条に戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認を明記した日本国憲法(革新陣営のいう「平和憲法」)と、装備も人員も乏しい警察予備隊だけでは独立日本の安全を守れないことを誰よりも知っていたからである。
「安保条約は不人気だ。政治家がこれに署名するのはためにならん」と言って、独りだけ署名したところに吉田の信念がうかがえる。
東西冷戦が過熱する一方だった52年4月28日に独立を回復した日本が採った基本戦略は、吉田ドクトリンと呼ばれている。西側の一員として安全保障の多くを米国に担ってもらい、自らは憲法に抵触しない軽武装で経済復興・発展を最優先するというものだった。その戦略は見事に当たり、日本は平和を保ちながら復興と経済成長を成し遂げ、世界第2の経済大国にまで上り詰めた。
しかし、平成が始まった89年、吉田が防衛・成長戦略の前提に据えた東西冷戦構造は崩壊し、世界は一寸先も見通せない歴史的な変革期に入った。
それから30年3カ月余りが過ぎ、平成は今日を含めてあと4日。この間、日本の内外情勢は大きく変わったが、とりわけ安保環境の変化は大きい。冷戦終結直後に世界で唯一の超大国となった米国は「新世界秩序」の到来を夢見たが、それは実現せず、経済力と軍事力を培った中国が世界の覇権を狙い、北朝鮮は核・弾道ミサイル開発で成果を挙げ、イスラム過激主義者がテロを世界に拡大し、大量の難民が発生するなど、かえって多極化し不安定な世界になってしまった。
数日後に始まる令和の時代はどんな世となるのか。時代の流れを読んで国のかたちを大胆に変革する慧眼(けいがん)と腹を持った政治家はどこにいるのだろうか。(敬称略)
政治部長 武田 滋樹