習近平政権の共同富裕、共同貧困に陥る可能性も

 中国の習近平国家主席は「共同富裕」の看板を高く掲げ、貧富の格差縮小に本腰を入れ始めている。だが、下手をすると文革時代同様、国民が等しく貧しい「共同貧困」の落とし穴にはまりかねないリスクを伴う政策だ。

 鄧小平時代には一部の人や地域が先に豊かになることを認める「先富論」を理論的支柱とすることで、経済特区で海外の資本を呼び込み経済活動の自由化とともに成長の土台とした。評論家の中には習主席が鄧小平の「先富論」を否定した上で、格差をなくして「共同富裕」実現に動きだしたとみる人も存在するが、そう話は単純ではない。

 何より鄧小平の「先富論」は、才能やチャンスに恵まれた人や地域が先に豊かな経済の果実を手にすることを容認するというだけでなく、後段には「豊かになった者が遅れた者を助ける」という文言が入っていた。

 中国の悲劇は、金儲(もう)けの自由を与えられガムシャラに働いて手にした富を個人や一族で囲い込むことだけに専念し、鄧小平が書き記していた「後に続く人たちに手を差し伸べる」という共同体社会の形成に失敗してきたことだ。

 とりわけ多くの小金持ちは、金が金を呼ぶ高金利の理財商品の購入や右肩上がりを続けた不動産への投資に熱を上げ、儲けた金をさらに拡大しようとして、いつの間にか貧者は社会の片隅にひっそりと鳴りを潜めた。

 中国では資産保有額が世界の上位10%に入る人は1億人を超える一方、平均月収が1万7000円前後の貧困層は6億人にも上るとされ、所得格差は年々、拡大するばかりだ。上位20%が下位20%の所得の10倍以上の資産を保有、さらに上位1%の富裕層による富の占有率は32%に達しているとの統計もある。

 なお驚きだったのは習主席が「共同富裕」を打ち出した後、瞬時に多額の寄付金が集まったことだ。IT企業大手のテンセント(騰訊控股)は「1000億元(約1兆7000億円)を投じる」と宣言。IT大手アリババ集団も中小企業の支援などに同額を投じると発表した。だが、どうもこの競うような寄付に、心がこもっているようには見えない。

 現在、当局によるIT大手の独占的立場を弱める統制強化に動きだしている中、当局の締め付けから逃れ、お目こぼしにあずかりたいという思惑が透けて見えるからだ。いわば寄付という名前の当局におもねった点数稼ぎであって、社会の底辺で苦しむ人々へ思いやりのこもった心情の発露とは思えないのだ。

 その意味では、唯物論の土台の上に構築された共産主義国家の限界を目の当たりにした気になる。金は必要なものだし、たくさんあるに越したことはないが、ただあるだけで意味を成すものでは決してない。

 社会の活力が増大し、人々の心情が豊かになってこそ、金の意味がある。他人を思いやる善意からの寄付は生きた金だ。その金は体温を持ち、出した方は隣人たちに役立ったことで豊かな心情になるし、受ける側も感謝して受け取る。いずれも地域共同体の絆を強くする。

 そうした人々の心情の畑を耕してこそ豊かな国と言えるのだが、それができないのが強権国家の性(さが)だ。共産主義国家の悲劇は、「心の貧困」にスポットライトを当てようとしないことにある。

編集委員 池永 達夫