作家の故安岡章太郎の随筆は、自然な語り口で…


 作家の故安岡章太郎の随筆は、自然な語り口で文章が流れていくのが魅力だ。疲れた時は、読みながら肩をほぐされているような感覚を味わう。

 しかし、最晩年の「カーライルの家」(「群像」2002年1月号)はやや散漫で、重要な地名の誤記もあった。

 この随筆は、安岡が夏目漱石の初期作品「カーライル博物館」を手に、ロンドンはテムズ川北岸、チェルシーにあるカーライル博物館を訪れた時の感慨や昔の思い出を綴(つづ)ったものだ。漱石がテムズ川南岸からチェルシーの方を眺めたという公園をケンジントン公園と書いているが、バタシー公園の誤りである。

 安岡は戦前「カーライルの名前も知らんのか」と友人に言われた記憶を種に、カーライルの『英雄崇拝論』にやんわりと異を唱えたかったようにも読める。文中の「真珠湾の特殊潜航艇とかいうもの」とのやや蔑(さげす)むような書き方にもそれが表れている。だが、地名の誤記に見るように腹を据えた批判になっていない。

 落語家など歳を取ると円熟味が増し、無理に受けを狙わないから、かえって面白味が出てくる。吉井勇が8代目桂文楽に「長生きするのも芸のうち」と言ったのはそういう意味だろう。しかし、芸の基本が怪しくなってはどうしようもない。

 8代目は口演中、台詞を忘れて絶句。「申し訳ありません。もう一度勉強し直してまいります」と言って、以後高座に上ることはなかった。その見事な引き際は今も落語界の語り草だ。