「私の次の夢は、日本の有人ロケットで種子島…
「私の次の夢は、日本の有人ロケットで種子島から宇宙に行くこと。お世話になった種子島の方々を乗せて、宇宙から地球を眺めてもらいたい」――種子島宇宙センター(鹿児島県南種子町)で初のロケット打ち上げが行われてから50年を迎え、記念式典で宇宙飛行士の油井亀美也さん(48)がこのように話した。
わが国のロケット開発の道のりは決して平坦(へいたん)ではなかった。2000年前後、宇宙開発の意義も見失われがちで予算も削られ、H2(H2A開発までのロケット)の打ち上げ失敗で技術陣の信頼失墜も小さくなかった。
油井さんの先の話で思い出したのが、当時の宇宙開発事業団(NASDA)の研究センター長の「『いずれ海外旅行感覚で宇宙へ出掛けたい』という国民の夢をかなえるために宇宙開発を行っている。応援してほしい」という言葉。
時代と立場も違うが、宇宙開発を取り巻く人々(技術者、飛行士ら)の宇宙に対する思いには一貫したものがある。これこそ開発の原動力だろう。
一方、そのセンター長はH2打ち上げ失敗について「上から『オリンピックだって、いくら選手団を送り込んでもメダルを一つも取れないのなら意味はない』と言われた」と気流子に嘆き節も交えた。試練の時代だった。
その後、機構改革を進め宇宙航空研究開発機構(JAXA)として発展し、次期H3ロケットへ国民の期待がかかる。「勲(いさお)の影に涙あり」は世の常だと、ここでも思う。