「全く、どんな事でも起り得るのだ」と虎に…
「全く、どんな事でも起り得るのだ」と虎に変身してしまった男は、無念さをかみしめながら再会した旧友に向かって言う。中島敦の名作「山月記」(昭和17年)の中の言葉だ。
人間が虎になることはないが、「どんな事でも起り得る」のは、人間世界の真実だ。その点で「教養こそは、(略)前例のない出来事が起こったときに、ものごとを決めるのに唯一、参考になるものです」(橋爪大三郎著『正しい本の読み方』講談社現代新書)という言葉には、納得するところが多い。
自分の生涯の中では想定外の出来事であっても、もしかすれば過去に似たような事例があったかもしれない。歴史が思い出されるのはそういう時だ。
日本ではないが、数千年前に書かれた『孫子』や『史記』が今も読まれていることは、難題に直面した誰かが、指針を得たいと思って頼りにしている証拠だ。膨大な日本史の史料や著作もその点では同じ。
もちろん、歴史を記録した人物は「後世の参考のために」と考えたわけでは必ずしもないだろう。日記や手紙は、必要に応じて書かれるのが普通だ。たまたま残っていたために何かの機会に発見されただけだ。
発見の経緯はどうあれ、今の人間が何かの理由でその記録を必要とすれば、それは歴史の効用と言うべきだ。歴史の意義は後世に役立つこと以外にもいろいろあるだろうが、生きていく上での指針になり得るという一点は見落とすことができない。