名作映画「砂の器」(1974年公開)撮影中の…


 名作映画「砂の器」(1974年公開)撮影中のエピソードを話題にしたエッセーを最近読んだ。病人を乗せた台車が進む場面。効果音のスタッフは、砂利道を進む場面と橋を渡る場面それぞれを、2晩徹夜して録音した。

 録音を野村芳太郎監督のところへ持って行くと「ここは音なしで行こう」との非情の宣告。監督の判断の理由は分からないが、撮影関係者の一人だったエッセーの筆者は「監督は時に、鬼にならなければいけない」と思ったという。

 2晩の徹夜が徒労になってしまったのだが、この種の出来事は映画の撮影にあっては特に珍しくもないのだろうとは思う。テレビドラマにも演劇にも、似たような話はたくさんありそうだ。

 音声スタッフにすれば全く理不尽な話だが、映画の撮影については監督が最終責任者とされる。名優勝新太郎も、黒澤明監督にはかなわなかった。「影武者」(80年公開)での降板事件だ。

 映画の製作に関して、監督が「鬼」のような位置にいるのはよく分かるが、監督といえどもどうにもならないのが主要出演者のスキャンダルだ。

 時に撮影中止、映画完成後であれば上映中止、または再編集による延期。テレビドラマの場合は放送中止、番組差し替えなど、監督や演出家の手の届かないところで、慌ただしい対応がなされる。監督にとっても理不尽な話だ。だがこれは、作家や画家といった個人による表現とはまた違った集団表現の宿命のようだ。