文芸評論家の小林秀雄(1902~83)は60~70年代…


 文芸評論家の小林秀雄(1902~83)は60~70年代、数百人の学生との対話を何度か行った。『学生との対話』(新潮文庫)に全容が収録されている。小林の講演後が質問タイムだ。「自分には理想がある」と学生が発言する。理想の中身について、小林から問われた学生は「生まれて来てこれがよかった、というものをつかみたい」と言う。

 それに対し、小林は「理想なんて抱いたことはなかった」と答える。女との生活の方が大変だった。理想なぞあれこれ考えている余裕は、精神的にも時間的にもなかった、というのが回答だ。

 小林の青春時代だった昭和元年前後、同世代の左翼学生は理想や空想を盛んに語っていた。そもそも彼らに、生活の苦労はなかった。親からの手厚い仕送りを受けながら、現実とは無関係の理想や空想を彼らは語っていた。そのように小林は振り返る。

 自身の生存に関わってこないようなテーマは虚(むな)しい、というのが小林の生涯を一貫した考えだったと思えてくる。だから、切実さから離れた質問には関心がないのだろう。

 他にも、民主主義や「天皇制」といった質問も学生からは出てくるのだが、民主主義について君がどれほど本気で考えているかが質問からは伝わって来ないのだよ、と小林は回答している。

 こうした本物の問答を前にすると、テレビ番組の「○×でお答えください」という決まり文句の質問が極めて退屈に見えてくるのは当然だ。